森田大夢(だいむ)は鼻が折れていた。
顔の真ん中の隆起を中心に、紫色のサークルができていた。
「痛くなかったですね。最後ですし、キャプテンですし、抜ければ士気に響きます」
言葉を絞り出した。
自分の体より、主将の責任。
敗戦でその献身は報われなかった。
1月9日、50回目を迎えた全国高等専門学校大会(通称=高専大会)の決勝が神戸市のユニバー記念競技場であった。
森田が率いる仙台高専(名取キャンパス=東北第1代表)は、奈良工業高専(近畿代表)に0−33(前半0−19)で敗れた。
ゼロ封され、5トライを奪われた。
鼻骨骨折をおして、前後半70分、グラウンドに立ち続けた。森田は唇をかむ。
「完敗って感じです。ロースコアに持ち込んで、守り切る予定でした。でもトライをポンポンと取られ、流れを持っていかれました」
前半13、20分とBKに連続してインゴールを陥れられる。奈良の経験者は大会パンフレットに記載されているメンバー25人中15人。こちらはわずか2人。
相手はボール扱いに慣れていた。
CTBの森田は0−26の後半23分、ボールもらうとまっすぐにタテに出る。仲間とダブルドライブで敵陣まで20メートルほどに迫るが、味方は3次攻撃で落球してしまう。
「優勝して、リベンジで終わりたかったです」
昨年の49回大会では奈良に準決勝で7−83と大差負け。点差こそ縮めたもののひっくり返すまでには至らなかった。
高専は理系生徒が中学卒業後の5年間において、専門的な学びを深化させる学校だ。
卒業後の進路は3つ。短大卒として就職するか、大学の3年に編入するか、母校の専攻科で2年を過ごし大卒となるかである。
その高専界において、仙台は名門チームだ。
節目となる半世紀を迎えた全国大会では、前身の宮城工専時代を含め、最多14回の優勝を誇る。2位の神戸に4差をつける。
森田が入学、そして入部したのは高専史上初となる4連覇の真っただ中だった。
1年時の46回大会(2015年度)の決勝では奈良を25−24と1点差で下し、チームは3連覇を果たした。
高専に進路を定めたのは、5歳上の兄・望夢(のぞむ)が通っていた影響だ。
「ちゃんとしている部活だよ」
兄は吹奏楽部もラグビーをすすめた。
「連覇していて、部の雰囲気もよくて、先輩たちも優しかったので入部しました」
その出身は福島の相馬。中村一中では野球部だった。
森田は災害を経験した。しかし、それらに屈しなかった。
小6に上がる2011年、東日本大震災に遭う。自宅は全壊。一時は隣県の山形で避難生活を強いられる。それもあって、高専の5年間は寮から通った。
昨年10月、台風19号の時には新装なった自宅が断水に見舞われた。
「2リットルの水のペットボトルを10ケースほど車で運ばせてもらいました」
監督の柴田尚都は振り返る。
そして、この最終学年は鼻以外にも大けがに見舞われた。
昨年7月、左足首を骨折する。手術をして1か月入院した。練習復帰は大会直前の12月だった。
「ウエイトトレもできたし、チームを客観的に見えてよかったです。僕が抜けた分、下級生たちが成長してくれました」
思考はつねにポジティブだ。
仙台の部員数は36。慣例により、主将は入学前の1年生を除き、投票で選ばれる。
「森田はほぼ満票でした。プレーはしっかりしているし、自分の思いを言葉にできます。実にしっかりしたキャプテンでした」
柴田は森田の1年間を締めくくった。
この春の卒業後は、北海道にある室蘭工業大に3年生編入する。最初は鹿児島にある鹿屋体育大を志望していた。
「ラグビーだけではなく、監督やコーチとしてスポーツに関わっていけたらいいなあ、と思いました」
しかし、骨折で昨年8月の編入試験の実技を受けられなかった。
室蘭工業大では、高専で学んだ電気システムをベースに情報工学の分野に進む。
「勉強して、会社に入って、社長になれたらいいなあ、と思います」
残念だった過去を思い悩むことはない。
「ラグビーをやってよかったです。5年間で先輩や後輩を含め、色々な人とつながることができました。このスポーツは仲間のために体を張る。そして、リザーブメンバーを含めた25人が一体になります。その中でキャプテンとしてリーダーシップをつけさせてもらえ、人間性を磨かせてもらえました。」
大学にはラグビー部はない。
「アメリカンフットボールはあるみたいですけど、地元にクラブチームがあれば、そこで続けたいと思っています」
5年ではまだやり飽きていない。
災害やケガを乗り越えた森田。その人生で大きく影響を受けた楕円球をこれからも離さないつもりだ。
心強い20歳の旅立ちである。