ラグビーリパブリック

高校日本一! 桐蔭学園の藤原センセイ、30年目の歓喜。

2020.01.08
創部は1964年。部員数94人(撮影:早浪章弘)

創部は1964年。部員数94人(撮影:早浪章弘)

■ 紺と黒。モノクロの記憶

 1月7日、大阪は花園ラグビー場で全国高校大会決勝が行われ、桐蔭学園(神奈川)が御所実(奈良)を23-14で破って優勝を決めた。桐蔭学園にとっては7度目の決勝チャレンジで、初めての単独優勝だった(2010年度に東福岡との両校優勝)。

 藤原秀之監督、優勝が決まると珍しく感情が表に出た。

「これまでの、いろんなことが走馬灯のように浮かんできましたね」

 2005年度の85回大会、伏見工に優勝を譲って以来、決勝進出が今回を含めて7度。

 本人やOBたちにとっては歯がゆく長い14年だったろう。しかし、この15年で7度も決勝に勝ち上がった高校チームは桐蔭学園と東福岡のみ。優勝以前に打ち立てられた大きな実績と言える。

 前監督時代に、大学を卒業したばかりの藤原秀之先生がやってきたのは1990年のことだった。

 藤原秀之コーチは、大東大一高の韋駄天WTBとして活躍し、全国優勝(第65回大会)を遂げた経験の持ち主。日体大ではリーダーの一角をなした。ただ選手として公式戦の出場は1。関東大学対抗戦の学習院大戦勝利が唯一の実績だった。

 指導者としては試行錯誤の日々を過ごした。生徒たちにとっては強豪大学出身の新卒教員、待望のコーチだった。しかし、なかなか勝たせてやれない。当時、桐蔭学園はまだ花園出場を果たしたことがなかった。神奈川県には全国トップレベルの強豪である相模台工業が君臨していて、桐蔭は県4強、8強の線上で戦うチームだった。

 物事をはっきりといい、照れ屋の藤原監督に、ぶっきらぼうな印象を受ける人もいる。実際は、生徒たちに、厳しさと同時に面倒見の良さを感じさせる指導者だ。日体大ラグビー部では、私生活を取り仕切る寮長を託されたことからも、その人柄はうかがえる。

 新卒1年目の藤原先生に、進路と部活の両立に悩んで話を聞いてもらったという当時の3年生部員は、夜9時を回るまで学校に残って向き合ってくれたその日のことを忘れない。家庭の事情もある中、秋まで部員として残るか、春でスパイクは脱ぎ勉強に専念するか決めかねていた。その生徒は藤原先生と話して腹が決まったという。秋までプレーし、現役で合格した大学でもラグビーを続け、今はある高校で校長職に就いている。静岡聖光学院ラグビー部、アドバイザーの星野明宏がその人だ。

 ライバルの相模台工業は藤原先生が赴任した3年後の1993年度、1994年度に全国大会連覇を達成。そして、そのわずか2年後の1996年度に、桐蔭は相模台工を神奈川県予選で破って、初めての全国大会出場を果たした。初出場時の花園戦績は16強、さらに2年後には花園4強と強豪の階段を上った。

 その後のストーリーは、花園のトップ争いの歴史を彩って、広く知られている通りだ。
 
 今年の花園で話題になったのは、桐蔭学園が部内で、対戦校の「プレゼン」をして各試合に臨んでいたというエピソードだ。戦う相手へのリスペクトを忘れないーーこの習慣は大会の終わりまで続いた。今回も桐蔭のメンバーは、奈良は御所の街と学校についての知識と敬意を心に刻んで、当日の朝を迎えている。

 かつて同じ県内に全国トップ級の強豪がいて、いつも11月には3年生を送り出していた頃、桐蔭学園は相模台工業と戦う時は決まって全身白のセカンドジャージーをまとって決戦に臨んだ。好敵手にして全国トップランクのサガミのジャージーは、全身黒。そこへ純白の軍団がチャレンジを繰り返していた。

 色のとり合わせと歩んだストーリーは、奈良県代表のチャレンジャー、漆黒の御所実とよく似ている。同じく全国の強豪である天理の白い壁を突破してきた御所実は、今回が4度目の決勝だった。何度もはね返されては、また立ち上がった。対戦相手のことを誰よりもよくわかっていたのは、藤原先生だった。

1968年生まれ、現役時代はWTB。大東大一の選手として高校日本一に輝いた経験も(撮影:早浪章弘)
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