連覇の夢は8強戦で打ち砕かれた。
前半27分、はっきり表れる。
得点は0−14。大阪桐蔭は追撃トライ成立まで約10メートルに迫る。ラックサイドを突く。瞬間、長い笛が花園ラグビー場にこだます。重い反則が示された。
ロー・ヘッド。
タックルに入られないほど頭を低くして突っ込んでしまった。首や頭の安全性確保のため、昨年度のこの全国大会から厳しく取られるようになった反則である。
桐蔭学園の選択はタッチキックではなかった。展開。前半終盤の時間帯、自陣ゴール前という不利をものともしない。
右を抜いたSO伊藤大祐が大きな蹴り。拾ったCTB渡邉誠人がWTB西川賢哉にオフロード気味のパス。3回目のトライラインを超えた。
逆襲は約90メートルだった。
初スコア目前での反則。そこからの失点でチームは奈落の底に突き落とされた。
「トライ数は3つ、4つの勝負と読んでいました。でも、先に3ついかれてしまいました」
OB監督の綾部正史は視線を落とした。
この前半27分の5点には、桐蔭学園の卓越性が凝縮されていた。
リスクを背負っても攻める勇気。
前を見て下す状況判断。
メンバーの反応の早さ。
走りながらのキックの正確性。
走力の高さ。
つなぎのうまさ。
昨年からレギュラーだったSO嘉納一千(いっせん)は涙が止まらない。
「シンプルに強かったです」
最終的なスコアは12−31だった。
昨年、同じカードは決勝戦で実現。大阪桐蔭は26−24で初優勝を飾った。
今年の対戦は4日早い1月3日。99回目の大会では準々決勝敗退となる。
大会5回目となった「トウイン対決」は2勝3敗と負け越した。
昨年から正選手だったHO江良颯(はやて)は2年間の桐蔭学園の差異を口にする。
「去年と違ったのはディフェンスの部分。圧力がかかって前に出られませんでした」
2トライは0−31と完全に勝負がついた、後半11分以降に挙げたものだった。
前半6分を皮切りに、ボールを奪われる被ターンオーバーは3回。前半27分のロー・ヘッドも桐蔭学園の重圧に対する結果と映る。ボールを守るため、普段よりも低く突進してしまった。
綾部は攻守に方向性を示すゲームリーダーの少なさも口にした。
「あの2人の卒業は特に大きかったですね」
帝京大に進んだ主将の松山千大(ちひろ)と高本幹也。抜群のキャプテンシーを持った松山とSO経験者の高本はともにCTBながら、試合の流れが読めた。嘉納を含め、昨年は司令塔が3人いたことになる。
今年は嘉納ひとり。補佐を期待されたCTB中村航希は12月の練習で右手首を骨折。大会出場はかなわなかった。
江良とともに昨年から高校日本代表に選ばれ、抜群の突破力を誇る主将の奥井章仁(あきと)はNO8。まずはボールの争奪に注力するため、ポジション的にチーム全体を俯瞰することには向かなかった。
「ツキがありませんでした」
綾部は唇をかんだ。
色々な要素が絡まり、戦後6校目となる花園連覇は消える。秋田工、目黒(現目黒学院)、相模台工(現神奈川総合産業)、啓光学園(現常翔啓光)、東福岡に続くことはなかった。
ただ、厳しい敗戦にも戦績は残る。
1983年(昭和58)創部のチームは全国大会8強進出を加えた。優勝、準優勝、4強は1回ずつ。8強は2回になった。
すべて綾部が監督になってからのことだ。白に胸元に太い濃紺が貫くジャージーを強豪にさせた。全国大会出場は8年連続14回目だが、そのうち11回は綾部が記録した。
この1月で45歳になる綾部は大体大出身。現役時代のポジションはCTBだった。
市立尼崎の監督である吉識伸は5歳上の先輩である。その大学院時代にコーチとして重なっている。
「優しい男でね、部内マッチで『LOがケガでおらへん』ってなったら、『ほな、俺がやるわ』と気軽にFWにいってくれていました。普通は嫌がるでしょう、そんなんは」
卒業後はコーチと保健・体育教員として母校に戻る。2006年の86回大会から初代監督の仲谷弘磨から指揮権を譲り受けた。吉識の感じた人間性に部員は集まり出す。
そのグラウンドは人工芝ではなく土。花園ラグビー場を見下ろす標高642メートルの生駒山の近くにある。国定公園の一角のため、開発に制限がかかる。それを逆手にとって看板のフィジカルを強化した。相撲の土俵と一緒。むき出しの地面の上での転がりはクッションがない分、体には強さが宿る。
「この土台を変えず、幅を持たせていきたい。これを超えるチームを作りたいですね」
前半27分、定石通りのタッチキックではなく、一気の逆襲からトライを奪われたことを「幅」という単語に置き換える。
大いなる悔しさをこれからのチームの推進力に変えていきたい。