先生は偉大である。
枝吉巨樹(えだよし・なおき)はそう考える。佐賀工をOB監督として率いている。
「佐賀の田舎で、このチームを創り上げ、あれだけの選手を世に送り出しました。自分ではとてもできません。どれだけ勉強しても、したりるということはありません」
枝吉が崇拝するのは先代の小城(おぎ)博。佐賀工の中興の祖として、赤白紺の段柄ジャージーを全国屈指の強豪に成長させた。
99回目の全国大会では38年連続48回の出場を記録した。
キックポーズで老若男女に知られるFB五郎丸歩も教え子のひとり。同じヤマハ発動機のPR山村亮もそう。日本代表キャップはそれぞれ57と39を持つ。
枝吉が指揮を託された佐賀工は、元日の3回戦で敗れる。同じBシードの流経大柏に14−22。8強入りできなかった。
8点差を追いかける後半28分、ペナルティーを得る。位置は敵陣10メートルラインの外。選手たちはタップキック、いわゆる「ちょん蹴り」からの突進を選んだ。タッチキックからのラインアウトモールではない。
1点差まで詰め寄る好機も、最終的には反則を犯し、得点にはならなかった。
試合後、枝吉は小城に聞かれた。
「選手たちが頑張っていたのに、どうしてチャレンジさせなかった?」
相手インゴールまでは40メートル以上。まずはロングキックでその長い距離を縮めるべき、という意見だった。
ただ、そこにはリスクが伴う。キックボールが外に出ない、ラインアウトでの失投やターンオーバーなどもある。
その危険を承知した上であくまで断行する。それが小城の言う挑戦である。
「いや違います、という答え方もあると思います。でも、正しい、間違っている、ではありません。答えは結果だと思います」
佐賀工はトライを獲れず、敗れ去った。
枝吉は44歳。小城は今年2月に古希を迎える。出会いはサッカー部だった中学時代。兄・茂樹も佐賀工だった縁がある。
師弟となり30年近くが経つ。
枝吉は現役時代の3年間、花園の芝を踏んだ。2年から兄と同じSOで正選手。3年時の73回大会(1993年度)では1回戦で岡谷工に14−15。チームは強くなる寸前だった。
当時のBKラインはCTBに淵上宗志、FBに立川剛士を擁していた。枝吉の2つと1つ下。後年、日本代表キャップ5と17を記録する2人を司令塔として縦横に動かしていた。
立川は枝吉の選手時代を評する。
「キックのうまい、センスある先輩でした」
母校・関東学大のBKコーチをつとめる立川は、関東在住ながら息子2人、大輝と晃大を佐賀工に預けた。3年生SOの大輝は高大を父と同じくする予定だ。
枝吉は東洋大で学生時代を過ごし、電気の実習助手として母校に赴任。小城の元に戻る。指導者としての人生が始まる。
小城は日体大OB。保健・体育教員として佐賀農から佐賀工に転任する。1946年創部のチームで66回大会(1986年度)から86回大会まで21大会に渡って監督をつとめた。
中学ラグビーがほぼなかった地域で、小城は野球、陸上、バレーボールなど他競技の選手をスカウトしてきて育て上げた。
ハイライトは準優勝した80回大会(2000年度)。伏見工(現京都工学院)に3−21で敗れるが、「サコー」の名を全国に知らしめた。チームの全国大会成績は準優勝と4強が1回ずつ、8強11回を誇る。
小城は86回大会以降、管理職(教頭)になり、現場を一時離れる。定年退職した後は総監督となりチームを見守り続けている。
「先生は今でも毎日練習に顔を出してくれます。来られない日は携帯に連絡があります。自分からもします。あいつ、今日は調子よかったね、とか、元気がなかったね、とかそんな話をしています」
枝吉は小城をひと言で評する。
「パッション。あれだけ情熱を持った人物を先生以外には知りません」
県内における佐賀工の強さは圧倒的だ。全国大会予選の参加は鳥栖工のみ。決勝のスコアは209−0。記録的な大勝をわかっていながら、佐賀工は小城以来の慣例によりベストメンバーで臨む。
「先生の教えは、常に全力を出す、ということです。相手に1本たりとも触れさせない、隙を作らない。それでも、相手が悔し涙を流しながら、向かってくるなら、そこにリスペクトがあるんだ、という教えなのです」
鳥栖工と流経大柏の先発はケガなどで3人が代わっただけだった。
佐賀は肥前藩だった江戸時代、武士の心得を書いた『葉隠』を生む。その風土らしい対戦相手への向き合い方がある。
枝吉の監督歴は通算9年。OB部長でPR出身の同級生、仁位岳寛(にい・たけひろ)と時折立場を入れ替えながらやってきた。
新チームになれば10年目。監督としての目標は常に変わることはない。
「日本一を獲りたいです」
小城が監督として果たせなかった夢を、そば近くにいる教え子として実現させたい。
「恩師は生涯、恩師ですから」
令和2年度。小城を仰ぎ見ながら、枝吉のチャレンジが再び始まる。