意地の慶應が勝つ。もしくは勝利に等しいドロー。そこまでは予想できた。慶應の4年生がおそろしく力を発揮する。それもわかっていた。でも、慶應義塾大学総合政策学部4年の川合秀和がこんなにまで力をふり絞るとは想像できなかった。
11月30日。東京・秩父宮ラグビー場。大学ラグビーの価値が可視化された。そこまで2勝4敗の慶應は、すでに大学選手権出場の可能性を断たれていたが、対抗戦らしく、帝京との「ひとつの決戦」に臨み、挑んで、29-24の勝利を収めた。
この午後の背番号6は「鬼神のごとく」だとか「狂気の」なんて形容でもピタリときた。川合秀和は、荒々しい神であり、もはや常識の範疇にはなかった。開始13分過ぎ、当たり、倒れ、拾い、起きて、自陣から独走した。同22分、逡巡や痛覚を死語とさせる突進で、帝京のふたりの頑健なFWにダメージを与えた。約1分後、掘削機を真横に用いたみたいに空間をこじあけてトライを奪った。以後、ずっとタックルとぶちかましと意思を切らさぬポジショニングを続けた。変な話だが、公式にもらったマン・オブ・ザ・マッチの名誉がなんだか幻みたいに感じられた。そのくらい実際の攻守が際立っていた。これも変な話、正式に取材するのも虚しいほどの凄みを覚えた。そこで試合後の交歓会を終えた本人に「学生ラグビーの神髄を見た。敬服します」とだけ声をかけた。
慶應に限らず、すべての大学の4年部員に「次のシーズン」はない。その使命と緊張こそは若者の進歩を呼ぶ。とは、青春が遠くに去った者にわかることで、当事者は負ければひたすら悔しい。それでいいのだ。なぜ筑波大学を突き放せなかったのか。どうして日本体育大学に負けたのか。好漢よ、大いに悔いよ。そして、貴君の一撃と突破は見事だった。
あらためて学生ラグビーとは、大学当局でも、監督でも、OB会でもなく、4年部員のものなのだ。黒黄のジャージィのフランカーがそのことを確かめさせてくれた。指導者は「次」でなく「いまここにいる4年生」を勝たせるために人格のすべてを捧げなくてはいけない。短い射程では、戦力の厚くなる数年後をにらんでメンバー構成したほうが成功するかもしれない。しかし、50年、100年と続くクラブの歴史においては「いまここで勝とうと全力を尽くす」純粋な態度のみが伝統となる。レギュラー争いは冷徹な実力の競争で決まる。結果、先発が1、2年生ばかりになっても、それは自然だ。ただ控えの4年部員が「私たちは大切にしてもらった」と思えるかは問われる。大切にしてもらった人間だけが後進とクラブを大切にできるからである。
ワールドカップ観戦に励んだ東京在住の知人は大学の試合にもよく足を運ぶ。秩父宮ラグビー場の応援で気づいたことがある。総じて、関東大学リーグ戦の各校のファンは「自分の好きな大学をひたすら励ます傾向にある」。大東文化には「いつもひとりの応援団(おかしな表現だが本当にそんな感じがする)」がいて微笑ましい。かたや対抗戦は「応援に批評がまじる」。批評とは? 激励のみならずレフェリー批判や相手の戦術の評価も含まれる。野次といえば野次だ。伝統校にはそれぞれ特徴があって、明治のファンは「数人の仲間が並んで叫ぶ」。慶應は「紳士淑女で大声を発しない」。早稲田は「ひとりで批評の声を出す変わった人がよくいる」。もちろん印象に過ぎず、ま、半分は冗談だ。書きたいのは次の一点。
ある法政ファンの女性。小さな子どもと夫らしき男性の横で、単身、声援を飛ばす。ただし、むやみには発声しない。ここというところのみ。
「法政、集中!」
実に的確なタイミングらしい。いい話だ。