ラグビーリパブリック

【コラム】八八艦隊とガミナラ

2019.11.14
セレモニーで登場の郷土芸能・虎舞(とらまい)(撮影・山口高明)

セレモニーで登場の郷土芸能・虎舞(とらまい)(撮影・山口高明)

 釜石にラグビーワールドカップがやってきた9月25日の岩手日報に、日本選手権7連覇を達成した新日鉄釜石ラグビー部で「鬼軍曹」の異名をとった小林一郎さんの談話が載っていた。目を引いた一節を紹介したい。

——日本一になるための当時の作戦が「八八艦隊」。身長180センチ、体重80キロを超える選手を集める。自分もその1人。釜石は人数が少ない分、手塩にかけてフォワードをつくっていった。
 
 八八艦隊。日露戦争後、アメリカを仮想敵国に見立てた旧日本海軍の艦隊計画のことである。黄金時代を築く前の新日鉄釜石は、その言葉を借りて、ダイヤの原石を掘っていたのだ。スポーツ記者はこういう言葉にめっぽう弱い。釜石の先輩記者の力を借りて、さっそく小林さんに連絡を取った。
 
 電話越しの鬼軍曹は静かだけど、どこか迫力を宿した口調で振り返った。
 「当時、近鉄やトヨタ自工に対して、釜石のフォワード、スクラムは劣勢だった。だから大型化を図ろうと、地元の大きな選手たちをみんなで探した。その作戦を『八八艦隊』と呼んだ」
 
 昭和44(1969)年に富士製鉄に入社。日本代表のナンバー8として18キャップを獲得した。ラグビー人生の記憶に残るのは、輝かしい連覇の栄光ではなく、若い頃に試合に敗れ、寝台列車で釜石に帰るときに泣いていた先輩たちの姿なのだという。
 
 もっと強くなりたい。日本一になりたい。でかいやつを発掘して、俺たちで鍛えよう。そうだ。八八艦隊だ——。勇ましい作戦名に込められた、男たちのほとばしるような情熱が「北の鉄人」と呼ばれる伝説のチームの礎を築いた。そして、いつしか釜石は「ラグビーの街」になった。
 
 小林さんの話を聞いてから、フィジーとウルグアイの「歴史的な一戦」を目の当たりにした。釜石鵜住居復興スタジアムの主役は、欧州リーグで活躍する主力を多数擁するフィジーではなく、格下のウルグアイだった。9人のアマチュア選手を抱えながら、こぼれ球に身を投げ出し、前へ前へとタックルをしかけながら、フィジーの持ち味を消すためにボールをできるだけ保持する戦術を遂行。4大会ぶりとなるW杯通算3勝目を手にした。
 
 キャプテンは、公認会計士の資格を持ち、プライベートバンカーとして金融の世界にも生きるフランカーのフアンマヌエル・ガミナラ。鋭い出足と密集戦での激しいブローが持ち味だ。身長は公式サイトで175センチとあったが、実物はもっと小さい。海外サイトには5フィート7インチ(およそ170センチ)とあった。

9月25日の釜石SWは快晴。対戦両国の国旗を風が揺らす(撮影・山口高明)

 ウルグアイラグビーのスピリットを体現する人は試合後、「歴史を作る唯一のチャンスが今日の試合だと思っていた。僕たちのプロ精神を見せられた」と誇った。ガミナラは仕事とラグビーを両立させる自分たちのことを「ハイパープロフェッショナル」と呼んでいる。「報酬はもらえればうれしい。だけど、お金のためにラグビーをしているわけじゃない。仕事しながらラグビーをしていることを誇りに思っている。日本のリーグから声がかかったら、それはハッピーだけどね」
 
 聡明な個性の持ち主であることは、ユーモアに富んだ話しぶりですぐ分かった。自分の小ささを不利に感じたことはないのか。そう聞くと、「反対だね。ラインアウトは背が高い方が有利だけど、低いタックルをしたり、ジャッカルしたりするのに、僕の背の低さは役立っている」。そう言ってから、「生まれ変わったら192センチになりたい」と笑い飛ばした。大きくなる一方の世界のラグビー界で、小さなフォワードの居場所を証明したことも、彼の小さくない達成の一つだった。
 
 大きさを求めた北の鉄人と小ささを生かした南米の闘将。違うようで似たところのある双方が、時を超え、釜石の地で交わったように感じられたのは、ワールドカップならではの醍醐味だろう。大も小も内包するラグビーの懐の深さにも思いが至った。
 
 小林さんの富士製鉄入社からちょうど50年。水色がグラデーションする空の下で行われた釜石のワールドカップは間違いなく、44日間の非日常の中でも、とびきり特別な1日となった。

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