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W杯優勝を遂げた南ア代表黒人初主将、シヤ・コリシ物語(ラグマガW杯展望号再録)

2019.11.02

ワールドカップ優勝を成し遂げ、金メダルを胸に、娘を抱くシヤ・コリシ(Photo: Getty Images)


 人種差別問題を抱えていた南アフリカ社会で闘い、黒人、白人、さまざまな人種がいるレインボーネーションを一つにしたネルソン・マンデラは、1995年の自国開催ラグビーワールドカップで優勝の歓喜に包まれたスタジアムで、フランソワ・ピナール主将と同じ背番号6がついた緑色のジャージーを着て、笑顔で誇らしげに大観衆の祝福に応えていた。

 あれから24年。英雄マンデラと同じ6番をつけるのは、南ア代表「スプリングボックス」の第61代主将、シヤ・コリシだ。
 かつて白人ナショナリズムの象徴といわれたスプリングボックスの127年の歴史で、初めての黒人キャプテンである。

 2018年6月9日にジョハネスバーグのエリスパークでおこなわれたイングランド戦で、初めて主将としてスプリングボックスをけん引した。
 その年に引退したレジェンド、ブライアン・ハバナは、「これは南アフリカのラグビーにとって記念すべき瞬間だ」とコリシの主将就任を称賛した。「コリシ率いるスプリングボックスが2019年のワールドカップで優勝すれば、1995年の歴史的な勝利と同じくらいの衝撃になるかもしれない」

 ラシー・エラスマス監督は、人口の約9割が非白人(黒人・カラードなど)という国で、政府の絶え間ないプレッシャーを受けているが、肌の色でコリシを主将に選んだのではないと断言する。
「私はシヤがすばらしいプレーヤーであり、優秀なリーダーだと知っていた。彼は謙虚で、仲間から尊敬される勤勉な男だ。派手ではないプレーも黙々とこなす彼を私は好きだ」

 コリシは、今日の自分があるのはラグビーのおかげだと感謝する。アパルトヘイト(人種隔離政策)が廃止になる1991年に、ポートエリザベス近くの非白人居住区にある貧困家庭に生まれた。当時、母は16歳、父は18歳で、若い両親はわが子を育てられず、一緒に暮らした祖母が育ててくれた。しかし、愛情を注いでもらったが、いつも空腹だった。小学校の1年間の授業料50ランド(約350円)が払えないほど貧しかった。
「貧しい地区の子どもたちが夢見るのは、乗り合いタクシーの運転手になることくらい。やっちゃいけないことを考える者もいた。ましてや、スプリングボックスのキャプテンになるなんて夢にも思わなかった」

 幼少期、父と過ごすことはほとんどなかったが、シヤはひとつ、重要なものを受け継いだ。それは、ラグビー愛だ。父も祖父もラグビーが大好きで、コリシ少年は8歳のころから楕円球に夢中になった。
 ラグビーを教えコリシの才能を見抜いていた小学校時代の校長がブーツを買い与えてくれた。貧しくつらい少年時代だったが、周りの人々に助けてもらったと感謝する。そして、12歳のころに出場した地元の大会で光り、東ケープ州の名門、グレイハイスクールから奨学金のオファーをもらい、貧困地区をあとにした。

 人生が大きく変わった。

 公用語が11言語もある南アフリカで、コーサ語を話していた黒人のコリシはハイスクール入学当初、英語ができず言葉の壁に苦労したが、友だちが助けてくれた。コミュニケーション力をつけていき、ラグビーの才能も着実に伸ばし、18歳でプロへの扉を開けてウェスタン・プロヴィンスのアカデミーに入る。20歳のときにストーマーズでスーパーラグビーデビュー。22歳の誕生日を迎える前日にスプリングボックスで初キャップを獲得した。

 ストーマーズでは当初、ユーティリティープレーヤーと見られ、FW3列はどこでもプレーした。特にフランカーでの出場が多く、コリシのベストポジションは6番か7番か、ファンは議論した。だが、ブラインドサイドでは、サイズとフィジカルがやや物足りなかった。オープンサイドに集中させてもらえるようになり、豊富な運動量で背番号6を勝ち取った。南アでは、優秀なオープンサイドフランカーにその数字を与える。コリシは、伝統的なボールハンターというより、パワフルなボールキャリアーであり、しつこくハードタックルを繰り返す強いディフェンダーとして高く評価される。仲間がジャッカルで奮闘し、ボールを支配することはコリシに任されBKとリンクする。ビジョンが広く、パススキルも優れている。

 スプリングボックスの主将に選ばれてからしばらく、コリシは一選手としてパフォーマンスを落とした。とてつもない責任を背負い、プレッシャーがあったことを認める。
 だがワールドカップでは重圧に屈するつもりはない。ドウェイン・フェルミューレン、エベン・エツベスなど、周りにはリーダーシップスキルを持つ多くの仲間がいる。「助けが必要なときはいつでも、チームメイトを頼る」というコリシ。痛めていた膝も、もう不安はなく、フィールドでベストを尽くすのみだ。

 尊敬する偉大な故マンデラは、スポーツには「世界を変える力」、「刺激する力」、「人々を結びつける力」があると言った。
 貧困から、誇り高き南アラグビーの大将になったコリシは、「私は黒人の子どもたちだけでなく、あらゆる人種の人々を鼓舞したい。恩返しがしたい。すべての南ア人のためにプレーする。我々は想像以上に大きなものを代表している」と自覚する。

 2016年に白人の女性と結婚し、一男一女の父だ。コリシは2009年に母が亡くなったあと、孤児院や里親のもとで育ててもらっていた異父きょうだいの弟と妹を探し、法的手続きを経て養子にし、家族として一緒に暮らしている。
 コリシは自分の家族を持ちたいと常に思っていたという。それは、貧しく父親がいなかった子ども時代に根付いた最初の願望だ。
「私は彼らのヒーローになりたい」
 ワールドカップでコリシがウェブ・エリス・カップを掲げることがあれば、南アフリカだけでなく世界中の人々の胸を熱くするヒーローになるだろう。

※ この記事は、『ラグビーマガジン 特別編集 GO! JAPAN ワールドカップを見逃すな!』(ワールドカップ2019展望号)に掲載したものです。