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【ラグリパWest】泣き虫先生の育てた最初の教員、還暦に。 蔦川譲(六甲アイランド高校)

2019.11.01

60歳の還暦を迎えた蔦川譲さん(右)。現在は六甲アイランド高の部長である。左は蔦川さんの御影工時代にコーチとして補佐した泉光太郎さん。現在は報徳学園のコーチだ



 蔦川譲(つたがわ・ゆずる)は泣き虫先生こと山口良治が最初に育てた教員である。

 10月26日、還暦の誕生日を迎えた。
 当日、神戸市内のホテルでこじんまりとした祝宴が張られる。教え子ら120人ほどが集まった。主賓は地元の水道筋商店街にあるバーのマスターだった。
「戸惑っています」
 昭和の男は喜びを言葉にするのは不得手だ。

 60歳到達を聞いた山口はしみじみ言う。
「ユズルがそんな年になるなんて考えられへん。会ったのは15の時やで」
 その恩師も来年、喜寿を迎える。

 蔦川は現在、六甲アイランド高校の保健・体育教員、そしてラグビー部の部長である。
 チームはパーティーのあった翌27日、99回大会の県予選2回戦で姫路工を20−19と1点差で破る。祝福を送った。

 蔦川が競技を始めたのは伏見工(現京都工学院)に入学直後。1975年だった。母が山口と同じ京都市役所で働いていた縁がある。
 このチームで山口はFLとして日本代表キャップを13に積み上げている。

 蔦川の入学と同時に山口も監督になる。保健・体育教員として赴任は前年だった。蔦川は山口が3年間を見た部員の1期生になる。
 そして、大反響を呼ぶテレビドラマ『スクール★ウォーズ』のリアルが始まった。

 当時の写真に映る蔦川はリーゼント。「ハマの番長」も真っ青なくらい血気盛んだった。
「あの頃は何をしても怒られました。でも、先生からは必ずフォローがあった。それがすごいところでした」

 お説教の後は、ごはんを食べさせてくれたりする。優しかった。家庭訪問は当たり前。当時、家の黒電話はバンバン鳴る。
「何してるんや? 先生は今、テレビを見ているけど、おまえに似たやつが出ているわ」
 指導者よりオヤジに近い存在だった。

 弥栄中時代、やんちゃで「ヤサカのシンゴ」と異名がついた山本清悟(現奈良朱雀高監督)はひとつ下。LOとして日本代表キャップ30を誇る大八木淳史はふたつ下になる。

 蔦川はWTBやFBをこなした。国体の京都選抜には選ばれるが、全国大会には出られなかった。伏見工は連続出場とした60回大会(1980年度)で初優勝する。山口は就任6年目。主将はSO平尾誠二だった。

 蔦川は中京大に進学する。その入試前日にアクシデントがあった。山口が住んでいた阪急桂駅近くのアパートに蔦川たちが遊びに行く。食事が出て、楽しいひと時になる。

「ユズルはバイクに乗って帰ったんやけど、その時に橋の欄干に衝突して、足をうって、走れなくなってしまいよった」
 中京大の監督だった金澤睦(むつみ)は日体大の先輩。山口は恐る恐る電話をする。金澤はあっさり実技を免除してくれた。

 東海地区の名門で4年間を過ごし、神戸市の教員採用試験に一発合格する。
 最初の赴任先は市立の看護短大(現神戸市看護大)だった。

 ラグビーとの縁はいったん切れるが、要請を受け監督になった神戸学院大で指導にハマる。高校への転勤希望を出した。
「給料は年間150万円くらい下がりました。でも、嫁は何も言いませんでした」




 1998年、御影工に赴任する。
 御影工は長田工と新設の科学技術に統合される予定だったが、そのラストの2005年は単独で3年生20人のみで戦った。

 泉光太郎はその前年から2年間、コーチをした。報徳学園、明大、ワールド(現在は廃部)などで活躍したサードローは当時、学び直しの専門学校生だった。

「先生はクリームとかチョコとか菓子パンをいっぱい持って練習に来ていました」
 指導が初めての泉には「これで部員を釣るんや」と話していたが、今思えば三食を満足に摂れない家庭もあったのだろう。

 ボロボロのスパイクをビニールテープでぐるぐるに巻いて使っている部員もいた。
「報徳や明治では考えられませんでした」
 その姿に心を打たれた。謝礼は交通費込みで月2万円。週1でよかったが、いつしか毎日通うようになる。自腹を切った。

 その3年生20人で85回大会の兵庫県予選では過去最高の4強入りを果たした。
 関西学院に5−43と敗れるが、泉は最初の指導で達成感を持たせてもらえた。

「先生はラグビーが好き、ではなく、ラグビーをしている子供たちが好きなんですよね」
 タッチジャッジよりサイドを速く走って、トライした生徒とインゴールで抱き合ってよろこぶ。そんな蔦川の姿を思い出す。

 勝たせる指導者は素晴らしい。しかし、勝敗や技量に関係なく、部員たちに愛を注ぐ指導者の存在も決して小さくはない。
 泉は今、母校・報徳学園のコーチとして、監督の西條裕朗を助け、全国大会での2年連続8強を達成中だ。そこには、蔦川が実践してきた選手に寄り添う姿勢がある。 

 2006年、六甲アイランド高に転任した。
 摂南大のコーチである片畑昇はその時代の教え子だ。卒業後、蔦川の真髄を知る。

 HOだった片畑は摂南大2年の時、試合で左目をぶつけ、失明の危機に見舞われる。
「先生は落ち込んでいる僕をごはんに誘い出し、話を聞いてくれました」
 巣立っても、その愛情に変化はなかった。

 片畑は現在28歳。すでに中高の社会科の教員免許を持つ。保健・体育も取得予定だ。
「先生と出会っていなければ、ラグビーもコーチもやっていなかったと思います」

 蔦川には片畑と同世代の子供2人がいる。しのぶと諒太。上の娘は父と同じ教職に進んだ。市立の小中一貫校である義務教育学校港島学園で小6を教える。兵庫県ラグビースクールレディースにも属している。

 蔦川は来春の定年退職後は、最大で5年延長が可能な再任用を希望するつもりでいる。
 30年以上連れ添い、糟糠(そうこう)と表現できる妻の久美は話した。
「幸せな人生だと思います。好きなことをやって、生きて来られて」

 指導に詰まれば、山口の顔を思い浮かべる。
「先生やったら、どうしはったやろ」
 蔦川は今でも恩師を追いかけている。

記念写真におさまる蔦川さんの還暦祝いの出席者たち


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