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【大野均からのメッセージ/その3】 オレたちの南アフリカ戦。

2019.09.19

2015年W杯の南アフリカ戦勝利後、人差し指を高く掲げ観客の祝福に応える大野均(Photo: Getty Images)

 いつのまにか、大野均は「オオノ」から「キンちゃん」に変わっていた。
「エディーさんがサントリーの監督だった頃は『オオノ』と呼ばれていました。トップリーグの表彰式で(東芝の自分に)気さくに話しかけてきてくれて、優しいおじさんだなって。それが、ジャパンで一緒に過ごすようになると『キンちゃん』。やっぱり普段は気さくなんだけど、とにかく厳しくて」
 ジョン・カーワンの下、ワールドカップ(W杯)で結果を出せなかったジャパンは、世界屈指の名将に命運を託すことになった。
 エディー・ジョーンズ。2003年W杯でオーストラリアを準優勝、2007年W杯では南アフリカをアドバイザーとして優勝に導いた。2度のW杯で1度しか負けていない。妻は日本人。日本人の何たるかは知り尽くしている。

 ただ、大野に言わせれば「劇的に戦術が変わったというわけではなかった」。こだわったのは細部。足を止めず、走り続ける。倒れたら、すぐ立ち上がる。「その『リロード』と呼ばれる動きを大切にしていた。一つ一つのプレーのテンポ、クオリティーを突き詰めることにこだわる人だった」
「JK(カーワンの愛称)はサイズを好んだけれど、エディーさんは、とにかく運動量を重視した。どうあがいても、日本人がいきなり身長2メートルにはなれない。ならば、運動量で勝負するんだと」

 その志向は自分に合っていると、大野は感じていた。だから、就任当初のエディーのこんな言葉も前向きに受け止められた。「キンちゃんは2015年のW杯ではプレーしていないだろう。でも(発足したばかりの)いまのチームにはキンちゃんの経験が必要だ」
 W杯イングランド大会が開かれる時は37歳。「まあ、現実的な考え方ですよね。でも、いずれチームから自分が抜けることになるのであれば、その日を一日でも遅らせてやろうと。エディーさんの見立てをいい意味で裏切ってやろうと考えた」。本当に裏切ってしまうのが、何とも言えず実直な大野らしい。

 もはやチーム最年長の部類に入っていた彼は、午前5時台から始まる猛練習の繰り返しを進んで受け入れた。「東芝には朝練の文化がなかったから、逆に新鮮で。起きるのはつらいけど、やったらやったですがすがしいし、朝ご飯もおいしいし」

 笑い話にしか思えない有名なエピソードにも、改めて触れておこう。
 翌朝のポジション別練習がLOだけ中止になった夜。大野は同じポジションの真壁伸弥、伊藤鐘史を誘い、酒を飲んだ。それがばれてエディーに呼び出されたのだが、「飲酒はパフォーマンスを下げる。自覚があるのか」と怒られたのは真壁と伊藤だけ。説教はこう締めくくられた。
「酒を飲んでもパフォーマンスが落ちない選手を、俺は3人だけ知っている。ビクター・マットフィールド(南アフリカ代表LO)、ジョージ・スミス(オーストラリア代表FL)、キンちゃん」
「キンちゃん、飲んでもいいけと、一人で行ってくれ。若手を誘うな」
 大野は後輩2人から、うらめしそうに言われた。
「キンちゃんはいいよな」

 それはさておき、厳しい管理体制は、エディーへの反発心も込みで選手の結束を高めていく。一方、W杯を知る名将の準備は緻密なうえに緻密で、間違いなくジャパンを導いた。
 対戦相手の分析は、開幕の2年9カ月前にグループリーグの組み合わせが決まった時から始まった。
 エディーはまず、対戦する4チームを2種類に大別したという。「南アフリカとスコットランドはセットプレーが強くて、ストラクチャーからのアタックが得意。サモアとアメリカはアンストラクチャー。こぼれ球に反応し、自分たちのアタックを繰り出してくる。その二つのスタイルに分けて戦術を練り上げた。W杯が近づいてくると『今日は対スコットランドに特化した練習を』と、より中身が特化していった」

 カーワン時代、二つの戦い方を準備することはなかった。「エディーさんはコーチとして何度もW杯を戦ってきた。W杯を知っている人だった」
 南アフリカとの初戦を担うレフェリーを宮崎合宿に呼び、笛の特徴を見極めつつ、日本のスクラムの強さを印象づけるひと工夫もあった。そうやってエディーはピッチ内の準備を抜かりなく詰めていった。

 選手たちは、メンタルに影を落とすさまざまな要素をプラスに転化した。
 2016年からスーパーラグビーへの参戦が決まっていたサンウルブズの在り方を巡り、エディーは周囲と対立していた。それは進退問題に影響し、W杯を最後に日本代表から退くと事前に決まっていた。心身ともに極限まで追い込むことでチームを成長させてきた手法は、選手のストレスを極限まで増幅させてもいた。
「W杯が終われば、もう、エディーさんに会わなくていいんだと」。大野は冗談めかしつつ、大会直前の心理状態を振り返る。「W杯で勝って、気持ちよくエディーさんを送り出そうというのはもちろん、もう、このW杯は自分たちの、選手たちのものなんだと。だからこそ、悔いを残さないように、やりきろう。そんな吹っ切れた心境になれた」

 あの南アフリカ戦前日には予期せぬ出来事があった。試合に出られない主将として屋台骨を支えてきた廣瀬俊朗が、惜しくもW杯メンバーから落ちた仲間、トップリーグでしのぎを削ってきた仲間からビデオメッセージを集めてミーティングで流したのだ。
「熱い言葉を贈ってくれるヤツもいたんだけど、露骨に笑いを取りに来るヤツも多くて。みんなで大笑いして、じゃあ、明日はガンバロー、みたいなリラックスした雰囲気になって」
 大野が経験した過去2大会とは明らかに違った。悲壮感がない。ちょっと緩すぎないか? 自らの発言で雰囲気を引き締めようとした大野は、寸前で思いとどまった。
「結局、フランス大会でもニュージーランド大会でも結果は出せていない。だったら、こういう明るい雰囲気のまま南アフリカ戦に臨むのも、ありなんじゃないかって考え直したんです。それが大正解だった。過去のW杯とは違って、変に萎縮せず戦えた理由の一つになったなと、いまにして感じます」

 世界一厳しいと言われたほどの練習を重ね、それでも南アフリカに70、80点を取られて負けたら、もうこの先、日本がW杯で勝てる日は来ないんじゃないか。何度も抱いてきた不安は、試合当日を迎えたら、不思議と消えていた。
「開き直りみたいな覚悟が決まってピッチに出ていけた。よく覚えています」
 大野が立ち会った2度のW杯、しめて8試合ではたどり着けなかった境地だった。
 やりきる。その一点のみに、選手の心と体は収斂されていた。
 2015年9月19日。場所はイングランド南東部に位置する地方都市、ブライトン。相手は巨人、南アフリカ。
 決戦の幕が上がった。

2015年W杯の南アフリカ戦、相手のラインアウト後、次の動作に移る大野均(Photo: Getty Images)