ラグビーリパブリック

【大野均からのメッセージ/その2】ジャパンの物差し。

2019.09.14

2011年ワールドカップ、オールブラックス戦での大野均。(写真/Getty Images)



 経験とは、得体が知れない。
 スピードやパワーやスキルなら、栄枯盛衰は一目でわかる。
 経験は厄介だ。何しろ、目に見えないのだから。
 それが実は、身にまとう風格、修羅場での落ち着きの根源だったりする。

 大野均にとって2度目のワールドカップ(W杯)、2011年ニュージーランド(NZ)大会は、経験の重みが身に染みる大会となった。
 その4年間、大野はファーストメンバーではなかった。ヘッドコーチのジョン・カーワンからは、密集での存在感が薄れていると理由を説明された。「でも、ふて腐れなかった。メンバーに入れなくて、そういう態度を取る選手、いるんですよ。見ていて、格好悪いなって。試合に出られなくて悔しいのは当たり前。それをプレーではないところに出してしまうのか、練習にぶつけるのか。自分は後者でありたかった」

 後半途中まで競り合ったフランスとの初戦はリザーブ。21—47の善戦で出番は訪れなかった。「早く出せ、早く出せ、と必要以上にウォーミングアップしたんだけど」。さすがの大野も腐りそうになったという。「そうしたら、JK(カーワンの愛称)が『出してやれず、申し訳ない。次のオールブラックス戦で体を張ってくれ』と。JKにそこまで言われたら、ね」

 気力充実で臨んだはずのNZ戦、7—83と歯が立たなかった。主将のFLリッチー・マコウやSOダン・カーターは温存されたものの、HOケヴィン・メアラム、LOはブラッド・ソーンとサム・ホワイトロックで、CTBにマア・ノヌーとコンラッド・スミスという垂涎の顔ぶれ。トライ数にして1本対13本。ある意味、仕方ない結果と言えなくもない。
 ただ、すでにベテランの領域に足を踏み入れていた大野は納得できなかった。彼我の差を大きく分けたのは、経験なのだと33歳は感じていた。

「試合後の率直な印象は、83点も取られるほどの実力差はなかったということ。僕らはオールブラックスと戦うのは初めてで、相手を勝手に過大評価してしまった。勝手に自分たちで萎縮して、普段なら起こり得ない単純なミスをして、そこを突かれてトライされて、また勝手に焦って。その悪循環で、どんどん点差が広がっていった」
「2年に1度でも、あのクラスのチームと対戦できていたら、もっと冷静に物事を見られて、違うメンタルで試合に入れて、83点も失うことはなかったはず」

 もし、あのクラスの相手に体を当てた経験があったなら。変幻自在に映るオフロードパスに対しても、もっとやりようがあった。もっと素早くプレッシャーをかけてパスを放らせないようにする。もっとダブルタックルを徹底する。

 もし、あのクラスの相手とセットプレーで対峙した経験があったなら。2メートル級が待ち構えるラインアウトでも、もっとやりようがあった。高さに臆せず、日本のアジリティーを駆使して相手を置き去りにする。重さや大きさにおびえず、まずは自分たちが準備したムーブを信じ、試みてみる。
「結局、チームとしても個としても、世界と日本を客観的に位置づける『物差し』を持っていなかったんです」

 その「物差し」を手にする機会は、さかのぼれば大野がジャパンデビューを飾った2004年に失われていた。秋の欧州遠征。8—100でスコットランドに、0—98でウェールズに無抵抗なまま敗れた。1995年W杯でNZに145点を差し出した惨劇に次ぐ歴史の汚点。それ以降、ティア1の強豪とテストマッチが組まれることはなくなった。




 大野はスコットランド戦に先発していた。
「100点ゲームをやられて、ヨーロッパに呼んでもらえなくなった。いまみたいにイングランドやフランスと試合をできていたら、W杯でフィジーにも、カナダにも勝てていたと思う」
 ジャパンが自らまいた種だった。強化は何年もの遅れを強いられた。

 経験不足の連鎖は続く。トンガとの第3戦。大舞台では一つのミスが命取りになると、いまさらながらに思い知らされた。
 相手ボールのキックオフ。キャッチして、サインプレーで穴を突く練習通りの展開が現実になりかける。ところが、カンペイに似た動きからライン参加した主将のNO8菊谷崇が、痛恨のノックオン。ジャパンは7分近くゴール前で防御を強いられ、先制トライを許した。劣勢をはね返せず、勝利を計算していた相手に屈して18—31。点差はそれほど開かなくても、内容は完敗だった。
「ずっとジャパンに勝てなかったトンガが、W杯では別のチームになっていた」。途中出場の大野もまた、改めてW杯の怖さを思い知らされた。

 最終戦の相手は2大会続けてカナダ。2大会続けてジャパンは引き分けた。試合展開は真逆だった。ラストプレーで追いついたのが4年前。今回は後半34分まで保っていた8点のリードを守りきれなかった。
 やっぱり、大野は途中出場だった。「残り数分まで勝っていて『いける』という気持ちが芽生えたのが、油断につながった。ちょっとしたタックルミスで、ちょっとずつゲインされて『あれ、あれ?』って。フランス大会は勝ちに等しい引き分け、NZ大会は負けに等しい引き分けだった」

 大野は菊谷と抱き合って涙した。4年前と同様、もらい泣きだった。
「ジャパンで初めて、年下のキャプテンがキクちゃんだった。大変なプレッシャーがあっただろうに、ずっと頑張ってきてくれたから」
 その夜、やっぱり飲んだ。1日のオフを挟み、帰国の日。カーワンは「NZに残る」と言い残してチームバスを見送った。「お前なら、まだまだできる」と大野は声をかけられた。「『辞める』という言葉はなかったけれど、JKとはこれが最後なんだなって伝わってきた」

 サイズを重用しすぎた選手選考、創造性に欠けた戦術、勝利を逃した事実。いま、2度のW杯を率いたカーワンについてはネガティブに語られることが多い。大野は、どう感じたのか。
「ラグビーの戦術って、無数にあるじゃないですか。どれが正解っていうのはないわけで。JKの戦術はJKの戦術で、納得して取り組んでいました」
「本当に厳しい人だった。ちょっとしたミス、気持ちが抜けているような選手に対して言葉のプレッシャーがすごくて。練習もきつかった。さすがに早朝練習はしなかったけれど」
 そう懐かしむと、すぐ、大野は真剣な顔に戻った。
「あれ以上の厳しいメンタルで、あれ以上のハードワークをしなければ、ジャパンはW杯で勝てない。そう教えてくれたのが、JKと一緒に戦った2度のW杯だったと思う」

 NZ大会を終えた時、次の指揮官が誰になるか、まだ決まってはいなかった。合宿で午前5時台から練習を課す人がジャパンを率いることになるとは、選手の誰も知らされてはいなかった。
 それが、あの歓喜につながることも。
「JKの下で自分たちを追い込んで、戦って、勝てなかったあの時代があったからこそ、エディーさんの練習にも耐えられた。耐えなきゃ勝てないって、身に染みてわかったから」
 歴史はつながっていた。

ジョン・カーワン ヘッドコーチと。2011年大会のウェルカムセレモニーにて。(写真/Getty Images)


【筆者プロフィール】
中川文如(なかがわ・ふみゆき)
朝日新聞記者。1975年生まれ。スクール☆ウォーズや雪の早明戦に憧れて高校でラグビー部に入ったが、あまりに下手すぎて大学では同好会へ。この7年間でBKすべてのポジションを経験した。朝日新聞入社後は2007年ワールドカップの現地取材などを経て、2018年、ほぼ10年ぶりにラグビー担当に復帰。現在はラグビー担当デスク。ツイッター(@nakagawafumi)、ウェブサイト(https://www.asahi.com/sports/rugby/worldcup/)で発信中。好きな選手は元アイルランド代表のCTBブライアン・オドリスコル。間合いで相手を外すプレーがたまらなかった。

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