仲間のため、思いっきり相手にぶつかる。仲間のため、人垣に頭を突っ込む。楕円球と出会った時に感じた非日常の充実と責任がたまらなくて、ラグビーの虜になった。41歳になったいまも、それは変わらない。
「今季、ダメだったら来季はない。その一心で、ずっとやってきた。仲間と切磋琢磨して、ファーストジャージーを着て試合に出たい。それだけですね」
大野均は、変わらない。
もちろん、年齢とともに適応は施してきた。大好きなお酒は、ちょっと控えめ。スピードが衰えたと自覚する分、過去の映像を見返し、蓄えた引き出しから導かれる、読みだったり勘だったりを大切にする。ブレークダウンからブレークダウンへ。最短距離を突っ走り、体を投げ出す。
「ボールを持ってバーンと抜けてっていうプレーは、最近はもう、なかなか。自分にできるのは下働き。それだけだから」
謙虚さも向上心も、変わらない。所属する東芝では今季、15歳下の藤田貴大が副将になった。41歳のLOは26歳のFLからよくアドバイスを受ける。「キンちゃん、いまのはもっと、こうした方がいいよ」と。
「そう、ラグビーをやっている間はタメ語で」と苦笑し、大野は続けた。
「もしも自分がうまいと信じ込んでいたらイラッと来るかもしれないけれど、一番下手なんで。だから『ゴメンゴメン、もっと頑張るわ』です。そうでなきゃ、多分、この年齢までやれてはいない」
ただ、一つだけ、決定的に変わったことがある。日本代表、つまりはジャパンへの思いだ。「現役である以上、めざしたい」と常に話してきたのが、春先になると変わっていた。
「いまさら現実的ではないでしょう。仮に自分が呼ばれるようでは、チーム状態は極めて悪いわけだし。だから、今回のワールドカップ(W杯)は応援する側、サポートする側でありたいと考えています」
悔しさは微塵も漂わない、潔い口ぶり。
ならば、聞いてみたくなった。大野の経験を。3度のW杯でつかんだ喜びと無念を。そこに至る過程には、3度、あの舞台にたどり着いた大野にしか感じえない何かが、ジャパン最多の98キャップを積み上げた彼にしか感じえない何かが、きっとあったはずだから。
それこそすなわち、自国開催のW杯に臨む者たち、その舞台を見届ける者たちへのメッセージになる気がした。
「本当に、リミッター(限界)を外させてくれる舞台ですよね」
大野は飾らずに語り始めた。
初めて臨んだW杯は2007年フランス大会。大野は29歳だった。主将のNO8箕内拓郎にCTB大西将太郎、いまは亡きマンキチことFL渡邉泰憲。大会直前の負傷がなければ、WTB大畑大介もきっとピッチに立っていた。人情味にあふれ、個性派ぞろいのジャパンだった。
「同年代も先輩も後輩もいて、その中で自由にやらせてもらえた。すごく思い入れのあるチームで、すごく楽しいW杯だった」
この大会には二つのジャパンが存在した。
初戦を戦う「チーム・オーストラリア」、中3日で迎える第2戦の「チーム・フィジー」。それぞれの対戦相手から名づけられたチーム名が双方の立場を表していた。優勝候補との初戦は、言いきってしまえば、捨てる。ベストメンバーは万全の状態で第2戦に臨み、4大会ぶり、16年ぶりの白星をたぐり寄せる。不遇な弱小国に課せられた過密日程を乗りきるため、ヘッドコーチのジョン・カーワンがひねり出した苦肉の策だった。
大野はチーム・フィジーの4番だった。二つのジャパンの間に、温度差、ざらついた雰囲気はなかったという。捨て石のチーム・オーストラリアは入念なオーストラリア対策を練り、仮想フィジーの練習台にもなってくれた。彼らは3-91と討ち死にする。「誰も言葉にはしなくても、みんな、間違いなく『彼ら(チーム・オーストラリア)のためにも』という覚悟でフィジー戦に臨んだ」
リミッターは外れた。
ジャパンの歴史で語り草、80分間を終えて6キロの体重減。「3、4キロ落ちることはあったけど、6キロは初めて」。暑さの中、4点差に追い上げ、フィジーをゴール前に釘づけにしながら攻めきれず、戦いきった末の31-35。「ここまでやって勝てなかったら、しょうがないかと。どこか、すがすがしかった」
試合後は水ものどを通らなかった。ホテルの部屋で点滴を頼りに一夜を明かした。
結局、4大会ぶりの勝利はつかめなかった。ただ、ジャパンは4大会ぶりに、負けなかった試合、を手にする。
ウエールズに18-72と敗れ、カナダとの最終戦。7点差で迎えたラストプレーだった。途中出場のCTB平浩二がゴール右隅に飛び込み、大西が難しい角度からのゴールを決めた。12-12。右腕を突き上げる大西を包んだ歓喜の輪もまた、ジャパンの歴史を彩る一場面となる。
先発し、すでにピッチを退いていた大野は泣いた。
「スタンドを見たら、リザーブに入れなかった熊谷(皇紀)が号泣している姿を見て、もらい泣きしちゃって」
同い年、ポジション争いを繰り広げてきた2人の間だけに流れる空気と感情があった。
その夜、記憶をなくすまで飲んだ。「おそらく熱く語り合ったんだけど、まったく覚えてないんです」。翌朝、ホテルの部屋に戻ると、ふと我に返った。メモ用紙に、こんな言葉を殴り書きしていた。
やっぱり、勝ちたかった。
やっぱり、悔しい。
絶対、次のW杯にも行ってやる。
「カナダと引き分け、チーム全体に満足した感じがあって、自分もそうだった。でも、あの朝、ふと、それは違うんじゃないかと」
そもそも、突貫工事で迎えたW杯だった。ニュージーランドのレジェンドWTBだったカーワンがヘッドコーチに就いて1年足らず。防御時の素早い出足が何とか意識づけされたくらいで、攻め手も試合運びもほとんど整理できてはいなかった。大畑をはじめ負傷者が相次いだことも大きく響いた。
だから、逆に、「次」への期待は高まった。「世界のスーパースターが日本のヘッドコーチになってくれた。日本は弱い、W杯では勝てないというマインドを変えてくれた。お前ら、世界でも勝てるんだぞ、と。4年間、JK(カーワンの愛称)が鍛えてくれたら、次はもっといい結果を得られるんじゃないかって」
そんな期待感も含めて「楽しい」W杯だった。
そういう時代だった。
ジャパンはカーワンと4年間を過ごし、カーワンが英雄と称されるNZに乗り込むことになる。大会を終えた時、また大野は泣くことになる。
フランスで流した涙とは、全く異なる味の涙がほおをつたうことになる。
【筆者プロフィール】
中川文如(なかがわ・ふみゆき)
朝日新聞記者。1975年生まれ。スクール☆ウォーズや雪の早明戦に憧れて高校でラグビー部に入ったが、あまりに下手すぎて大学では同好会へ。この7年間でBKすべてのポジションを経験した。朝日新聞入社後は2007年ワールドカップの現地取材などを経て、2018年、ほぼ10年ぶりにラグビー担当に復帰。現在はラグビー担当デスク。ツイッター(@nakagawafumi)、ウェブサイト(https://www.asahi.com/sports/rugby/worldcup/)で発信中。好きな選手は元アイルランド代表のCTBブライアン・オドリスコル。間合いで相手を外すプレーがたまらなかった。