ラグビーリパブリック

【ラグリパWest】プロ野球から考える。

2019.08.26

(写真/Getty Images)



 佐野仙好(のりよし)さんのお供をした。話題が選手起用になった時、口数の少ない人はすーっと言われた。

「監督の好きか、嫌いか、しかないじゃあないか。ほかになにがあるって言うんだい。みんな、ドラフトされてプロに入って来たんだよ。力なんて変わらない。紙一重だよ」

 佐野さんは阪神タイガースのスカウト顧問をつとめている。秋のドラフト会議で新入団選手を決める時のご意見番だ。この8月で68歳。今でも全国の球場に足を運んでいる。

 私は、「選手起用は公平にすべきだ」という書生論をアルコールの勢いもあって一席ぶった。それに対する短い説諭だった。

 佐野さんは1973年(昭和48)の阪神のドラフト1位だった。中大から強打の内野手として入った。期待を一身に集めたが、三塁を同年6位入団の掛布雅之さんと争うことになる。最終的に、この4歳下の同期に「及ばない」という判定が下る。

 佐野さんは、監督やチームの意向で外野にコンバートされた。そこから練習を重ね、定位置をつかむ。入団から12年後、球団初の日本一の時は「六番・左翼」。ミスター・タイガースと呼ばれる掛布さんは「四番・三塁」だった。349本の本塁打を放った。
 佐野さんは今年入団47年目。一度も球団を離れることなく過ごす稀有な人である。

 来月にはラグビーのワールドカップがこの国で始まる。31人の日本代表は監督であるジェイミー・ジョセフヘッドコーチが決める。佐野さんの言葉を借りれば、ジョセフの好みがまず存在する、ということだ。

 その代わり、結果が出なければ、解任される。金銭的損失も伴う。指導者として次の職場も見つけにくい。だからこそ、自分の嗜好を優先させる。やりたいようにやる。

 トップリーグのカップ戦が終わった。
 日本を含め各国代表候補が参加できなかった大会は、公式戦の出場機会に乏しい選手にとっては好機だった。選に漏れた者は自問自答の機会ができる。
「監督は自分に何を望んでいるのか」
 それを知り、トレーニングを重ねれば、首脳陣の天秤はかりは「好き」へ寄る。

 独善的になってはいけない。自分の評価をするのは自分ではない。他人である。
「フィールドプレーはいい。問題はスクラムとラインアウトのスローイングだ」
 そう首脳陣に言われたフッカーがいたら、組み込み、投げ込みを続けるしかない。

 ひとりでもスクラム練習はできる。姿勢を作って、地面に置いたトラックのタイヤを延々と押せばいい。スローイングはラグビーポールやネットを目標に投げればよい。
 どのポジションでも、個人でできる練習がある。それを考えるのもまた練習だ。

 試合は「出てなんぼ」。まずは評価の舞台、自分を表現できる唯一の場に上がらなければ意味がない。指導者の好みに重ね、その場所を追求するのは、魂を売ることではない。

 そして、その姿勢や努力は顔に出る。




 山田正雄さんも佐野さんと同じスカウト顧問だ。所属は北海道日本ハムファイターズ。今年9月で75歳を迎える。以前はドラフトやトレードなどチーム編成全般に責任を持つGMだった。ダルビッシュ有、中田翔、大谷翔平らの獲得に関わった。今の日本ハムの根幹を作ったといっていい。

 15年ほど前、山田さんと島根の球場で会った。他球団のスカウトはいなかった。目当てはある高校のエース。一緒に投球を見た。降板して、山田さんは帰り支度を始めた。ところが出口に行かず、ベンチに向かう。
「顔を見て帰ろうと思ってね」

 プロ野球にそこは関係ないのではないか、という疑問をぶつけた。即答された。
「いや、人間は顔に出るんですよ」
 山田さんは球団で売り出すためにジャニーズ系を探していた訳ではない。きりっとした男らしさを求めていた。顔つきも判断要素のひとつだった。

 後日、あえて質問したことがある。
 指名しておいたらよかった、と思う顔立ちの選手はいませんでしたか?
「井端君ですね」

 井端弘和さんは主に中日ドラゴンズの遊撃手としてならした。現役18年で安打は1912本。名球会入りまであと88本だった。

「自分はどこを見ていたんだろうね。彼のプレーは何回も見ていたはずなのに」
 井端さんは堀越から亜大に進んだ。所属する東都は東京六大学と並ぶ学生最高峰のリーグ。視察は重ねたつもりだった。

 井端さんは1997年のドラフト5位で入団した。全体では50番目。期待値は低かった。見逃しは不名誉なことではない。

 ドラフトの後、山田さんはどこかの球場で井端さんを見た。その時、驚いた。
「すごくいい顔をしていたんだよね。これからひと合戦をするような感じでした」
 闘志が、その細い目にみなぎっていた。

 井端さんとサンウルブズのフォワードコーチの大久保直弥さんは同級生である。同じ川崎市の出身。小学校同士で野球の対抗戦があり、大久保さんは大師の一員として、井端さんのいる川中島と対戦した。
「モノが違いました。ああいう人間がプロに行くんだろうな、と思いましたよ」

 大久保さんは中学までで野球をやめ、法政二ではバレーボールに移った。法大ではラグビーを選ぶ。大学選手権優勝3度の名門で、わずか2年でレギュラーを獲った。そして、日本代表になる。バックローでキャップは23。所属したサントリーでは監督もつとめた。

 井端さんは170センチほどの身長を、大久保さんは初心者を言い訳にすることなく、そこからたたき上げた。2人とも試合に出るため、監督の望みを具現化したはずである。

 大久保さんはよく光る丸い眼を持つ。今でも野性味が伝わってくる。櫛風沐雨(しっぷうもくう)をくぐり抜けると人は甘さが抜け落ちる。いい顔になる。佐野さんも山田さんももちろんそうである。