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【ラグリパWest】久住ラグビー合宿を受け継いだ男。 後藤慶多

2019.08.09

久住スポーツ研修センターの二代目所長・後藤慶多さん。創設者の鷲司英彰さんから受け継いだ。後藤さんは明大のラグビー部OBでもある



 二代目は紫紺の一員だった。
 後藤慶多(けいた)は明治大ラグビー部出身。フランカーだった。

 後藤は鷲司英彰(わしづか・えいしょう)が創り上げた財産を受け継いだ。大分県の久住(くじゅう)にある「久住スポーツ研修センター」。今から6年前のことである。

 今や久住は同県の由布院などともに、高校ラグビー合宿のメッカとして、その名が全国に知れ渡っている。

 歴史が始まったのは1994年。鷲司が運営会社を立ち上げる。翌年、原野を切り開き、拠点となる2棟の建物とそれに隣接する天然芝グラウンド2面を作った。
 それから四半世紀が過ぎる。

「ワシさんは、苦労して作ったものをすっと赤の他人の僕に渡されました」
 35歳の後藤は、還暦を越えた元上司の軽やかな生きざまに敬愛の情を抱く。

 鷲司がひとりで携わってきた研修センターの運営に後藤が加わったのは2012年。一年間、一緒に働き、ノウハウを教わる。翌年、すべてを任された。僧侶でもある鷲司は、周囲から嘱望され、地元・竹田(たけた)の市会議員になっていた。

 鷲司の助けを時折借りながら、この施設をひとりで切り盛りする。
 後藤の家族は妻とひとり息子の3人。研修センターから車で20分ほどのところに自宅を持つ。しかし、毎年、合宿がピークになる7月下旬から8月下旬までの約1か月はこの職場に泊まり込む。 

 練習は朝5時半ごろから。高校生の消灯は夜10時。しかし、その後も指導者たちとアルコールのおつきあいを続ける。
「大変です。でも、規模が大きくなって、昔は九州、遠くても中四国だったのが、今は全国レベルで広がっています。うれしいです」

 今年はのべ42の高校とチームがこの地を訪れる予定だ。関東からは流経大柏と国体のオール茨城が参加した。
 全国大会の上位常連校では東福岡、東海大大阪仰星、御所実、京都成章、石見智翠館、尾道などが名を連ねる。
 最盛期には700人ほどの高校生を迎える。350人収容の合宿棟では対応できないため、近隣への分宿を要請している。




 後藤はこの大分県で生まれ育った。
 大分雄城台(おぎのだい)のラグビー部時代にこの研修センターで合宿をした。
 明治大を選んだ理由を話す。
「自由な感じがありました」
 同期の主将はセンターの高野彬夫(あきお)。社会人ではクボタで活躍した。

 部では大分雄城台は少数勢力。直系の先輩はいなかった。そのため、東福岡や日向(ひゅうが)など、久住での合宿経験者が「会」のようなものを作ってくれる。ごはんを食べに連れて行ってくれたりした。
「不安がかなり取れました。同じところで合宿をしただけなのに、ラグビーのつながりの強さを感じました。あれがなかったから、クラブをやめていたかもしれません」

 2年の時に八幡山の寮が新装され、現在の建物になる。各学年で構成された8人などの大部屋を知る最後の世代だ。下級生は同部屋を含めた上級生のリクエストに応えなければならない時代だった。
「あの頃は、精神的に鍛えられました。いい思い出です」
 元々細い目がなくなる。表情は緩む。

 就職はJTB。旅行業界を選んだ。勤務地は地元の大分。いわゆるUターンになった。学校への営業などをこなす。
 実家は青果店。いずれは家業を継ぐことも視野に入れていた。

 帰郷をしてから、久住には顔を出していた。鷲司には声をかけていた。
「なにか手伝うことありませんか」
 自分としては恩返しの一環だった。
「ラグビーをしていないと大学に行けていません。ラグビーがあるから今の僕がある」

 やがて、鷲司から声がかかる。
「やってみらんか?」
 退職し、有限会社「久住スポーツ研修センター」の代表取締役に就任した。  

 高校生の世話に明け暮れる中で、指導者たちにその名前が徐々に浸透していく。
 御所実監督の竹田寛行は評する。
「頭が柔らかいですよね。スマート。鷲司さんが作ったものをしっかりと継承しています。僕ら還暦に近い世代ももちろんだけど、30代や40代の若い監督たちからも慕われている。新しい時代を作っていますね」
 後藤は冬の全国大会で準優勝3回の記録を持つ名将からの信任も厚い。

 後藤は久住の未来を見つめる。
「高校ラグビーのために存在し続けること。それが一番大切だと思います」
 引き継いだものを磨き上げながら、これからの高校生たちのために生きる。
 その精神の根底には、明治大元監督の北島忠治が作った部訓「前へ」がある。