「希望が欲しいので、ワールドカップを目指したいです」
言葉の主は、選手ではない。釜石市鵜住居町にある旅館「宝来館」の女将、岩崎昭子さんだ。
2015年3月に釜石市がワールドカップ日本大会の開催都市に決まる、ずっと前。多くの人が招致を想像できなかったであろう復興のさなか、東京の鉄鋼会館で、想いを伝えた。
「東京の鉄鋼会館で、釜石を応援しようよという会があって、(NPO)スクラム釜石の皆さんもいて。そこで、希望が欲しいのでワールドカップを目指したいです、と言いました」
それがワールドカップ招致の第一声だったのだろうか。尋ねると、女将さんはかぶりを振った。
「スクラム釜石とか、そういう皆さんは、もう最初に活動しているから。『市民の声がなければ』という時に市民の声として、最初に言ったかどうかは分からないけど言ったことで、市民からも言われたぞ、となったんだと思うのね」
「ラグビーの人たちはみんな黒子に徹しているだけで、自分は自分は、とは言わないから。女将は商売だから前に出たいんだけど、実際は全然違うよ。私はただ旗を振っているだけだから(笑)」
大槌湾に面する有名旅館は、2011年の東日本大震災で2階まで浸水。岩崎さん自身も一度は波をかぶった。
被災から2か月が経った5月だった。
当時釜石シーウェイブスの事務局長だった増田久士さん、元日本代表の笹田学さんと会うなかで、ワールドカップ招致という夢が芽生える。変わってしまった故郷を歩きながら、言葉を交わした。
女将、ワールドカップあるから元気出せ。そう言われ、岩崎さんは答えた。それなら釜石でやってけれ。
あれから8年が経って、2019年7月6日、女将は仮設スタンドを備えた約1万6千席収容の釜石鵜住居復興スタジアムで、釜石シーウェイブス×北上矢巾ブレイズラガーの練習試合を見ていた。
「仮設スタンドの中で見るのは初めて。スタジアムらしくなった。集中してラグビーだけ見れるから、これはやっぱり良いね」
この8年で釜石はワールドカップ日本大会の開催都市となり、2018年夏にプール戦2試合の会場となるスタジアムが完成した。そして2019年7月27日には、パシフィック・ネーションズカップ2019の日本×フィジーの舞台にもなる。
女将はあの日語った希望を叶えた。本当に宝がやって来た道のりを笑顔で振り返った。
「私には招致の苦労はないの。叶うかどうか分からないまま動いてくれていた皆さんが、いろんなことを越えながら、いろんなことを言われながら、ここまで運んでくれたので」
ラグビーのまちで良かったなと思う。女将さんはそう言って故郷を誇った。
かつては日本選手権7連覇の“北の鉄人”、新日鉄釜石ラグビー部のラガーマンに憧れた。選手に会いたい一心でダンスを習ったこともあった。
「私たちの世代は、森さん(重隆)とか松尾さん(雄治)とか。チームがラグビーで勝ち始めて市民と交流させましょう、の年代なの。今はないけど小川体育館でダンスパーティーとかもあって。二十歳の頃か、ラグビー選手に会うために社交ダンスを習ったの(笑)。実は森さんとも手をつないだような気がするんだけど、誰も覚えてないでしょうね」
その大ファンだった元日本代表主将の「森さん」は、新日鉄釜石では選手兼監督で4連覇まで出場。その後家業を継いで福岡高監督、九州協会会長も務め、そして今年6月、ラグビー協会の新会長になった。
女将さんは、釜石という土地の不思議な力を感じずにはいられなかった。
「私は松尾さんも石山次郎さんもファンなんだけど、森さんが釜石を離れるときは、釜石のラグビーが終ってしまうというくらい寂しかった」
「でもいま協会の会長さんになって、釜石は守られてるなと思います。釜石を守れのメッセージのような気がして」
もちろん釜石の主役は、釜石のいまを生きる人びとだろう。
釜石を守るたくましい女性は、きょうも笑顔で大漁旗を振っている。