ラグビーリパブリック

【ラグリパWest】「コーリ」の新たな試み。同志社香里高校ラグビー部

2019.07.12

約450人のラグビースクール生は同志社香里の人工芝グラウンドに歓声をあげた



 転んでも痛みが少ない人工芝の上で、楕円球を追う小学年の歓声が響き渡った。

 7月7日。七夕の日曜日。
 同志社香里のグラウンドである。梅雨空を縫って、時折、太陽の光が差した。

 イベント名は「第1回同志社香里ラグビーカーニバル」。

 ほぼ中高一貫校には、高槻や生駒など近隣の10のラグビースクールから約450人が集合した。4〜6年生の高学年の児童だ。

「これだけ集まってもらえてうれしい限り。ラグビースクールは力があるね」
 高校の監督である清鶴敏也は満足げ。保護者を含めれば、大阪の北東、寝屋川市にある学校に1000人近くが訪れたことになる。

 今年9月で58歳になる清鶴は、高校ラグビー界の重鎮のひとりだ。
 冬の全国大会ではシード校を決めるシード委員長。1996、1997年度には高校日本代表の監督もつとめた。

 清鶴が日々、指導を施すフルサイズのグラウンドは4面に仕切られる。開会式後の午前9時30分から5時間に渡って、10分ハーフの熱戦が数多く繰り広げられた。

 選手たちには、スポーツドリンクとジュースのペットボトル2本、それにうちわが無料で手渡された。熱中症予防である。OB戦など大人の試合は開催されず、すべての時間と場所は子供たちのために供された。

 運営に携わったのは、清鶴の教え子ら約50人のOBたち。特注のグレーのTシャツを着る。中心はOB会会長の南野真寛(なんの・まさひろ)だ。
「よその学校はこういうことをやっているんで、4、5年前くらいからみんなでやりたいなあ、と話してはいました」

 昨秋、人工芝が張り替えられたことや、この日は期末試験中で、クラブ活動がなかったことなどもあり、実行に踏み切った。

 神戸製鋼の林真太郎も母校に姿を見せる。社会人4年目に入ったセンターは、この中学からラグビーを始めた。
「自分のやってきたことが、少しでも還元できればいいなと思って来ました」
 参加者のリクエストにも気さくに応じて、記念撮影にも加わった。

 林は2日前の金曜日、トップリーグのカップ戦でリコーとナイトゲームを戦ったばかり。後半25分、チャーリー・ローレンスに代わって、東京・秩父宮のピッチに立った。

試合は19−13で勝利し、開幕3連勝に貢献した。帰神したのは前日だった。
「大丈夫。疲れはありません」
 同志社香里出身の現役トップリーガーは今、2人しかいない。もうひとりはトヨタ自動車の新人センター・山口修平。林はそのつとめを果たした。

初の同志社香里ラグビーカーニバルの中心となった清鶴敏也監督、神戸製鋼の林真太郎選手、南野真寛 OB会会長(左から)




 今回のイベントは別の狙いもあった。
 この学校を知ってもらい、中学受験の選択肢に加えてもらうことだ。
 帰りにはOBたちが特製バッグに入った学校説明を手渡した。用意したのは選手の数と同じ。そのほとんどがはける。

 試合後、希望者は校内の会議室に移る。清鶴が学校の状況や成り立ちを伝えた。
「高3の95パーセントが大学は同志社か同志社女子に進学します」
 系列校の強みを訴える。同志社香里は2000年に男子校から共学に変わっている。

 南野は卒業生、そして元保護者の立場で話をした。息子3人の次男・仁(じん)、三男・剛毅はここから同志社大に進んだ。ともにラグビー部に所属。4年生の仁は主にスタンドオフ、1年生の剛毅はスクラムハーフだ。

「この人工芝で試合をしてもらえて、学校を見てもらえて、よかったと思います」
 南野はよろこぶ。
 学校主催のオープンキャンパスは別日に設けられるが、日曜設定が多いため、ラグビーをする小学生の参加は難しかった。

 同志社大学という進路の後ろ盾があるとはいえ、ラグビー部は少子化や受験の難易度、さらには他校の積極的な強化の影響で、近年は思うような結果を残せていない。

 創部は1951年(昭和26)。今年69年目を迎えた。冬の花園には4回出場する。
 初出場は南野が3年生の66回大会(1986年度)。8強に進出するも、13−36で天理に敗れた。監督は前任の西坂啓二だった。

 清鶴はその2年前に社会科教員として赴任しており、西坂をコーチとして補佐する。
 現役時代はスクラムハーフ。大分舞鶴から同志社大に進み、1982年度からの大学選手権3連覇(19〜21回大会)に貢献した。

 チームの最上位は4強。74回大会で長崎北陽台に12−18で競り負けた。この1994年度の出場が最後になる。
 聖地へは四半世紀遠ざかっている。

 輩出した日本代表は5人。神戸製鋼だった平尾剛史(現名=剛、神戸親和女子大教授)が最後だ。キャップ11を持つフルバックは、1999年の第4回ワールドカップに出場した。
 日の丸を背負った個人も20年間、出てきてはいない。

 その閉塞感を吹き飛ばすためのカーニバルだった。

 宮?洸(こう)は5年生。阿倍野ラグビースクールから参加した。
「人工芝のグラウンドで試合ができてよかったです。おとうさんをうらやましいと思いました」
 父・浩彰もまたこの学校で競技にはまった。現在は大阪の中学ラグビーの名門・東生野の監督であり教員でもある。

宮?のようなOBの子弟はもちろん、できるだけたくさんのラグビー児童との縁をつなぎ、入学、そして入部に導きたい。
 その先には、大学と同じジャージー「紺グレ」の再度の輝きがある。


Exit mobile version