ラグビーリパブリック

学び舎があった空の下。釜石高校・SH川畑駿介

2019.07.09

釜石高校ラグビー部の川畑駿介。釜石鵜住居復興スタジアムにて(撮影:多羅正崇)

 ボールボーイとして、岩手の釜石鵜住居復興スタジアムを走った。8年前は、この場所から命を守るために走った。当時小学校3年生だった。

 釜石高校ラグビー部のSH川畑駿介(3年)は、2011年3月11日の東日本大震災発生時、海抜2mの鵜住居(うのすまい)小学校にいた。道路を挟んだ海側には釜石東中学校があった。

 両校は津波により全壊。跡地で2017年4月、スタジアム建設が始まった。

 揺れは14時46分頃にやってきた。

「まず校舎の上の階へ行きました。そこでも危険と先生に言われたので、山の方に逃げました」

 校舎3階に集まったが、釜石東中の生徒はすでに逃げていた。中学生を追いかけ、約800m先にある介護施設「ございしょの里」(海抜4m)へ走った。

 避難場所だったございしょの里に到着。

 しかし地域住民の助言や、崖崩れの危険から、さらに約300m先の「やまざきデイサービス」(海抜15m)へ避難再開。中学生は、小学生と手を繋いだ。

「先生たちの指示に従いました。津波が来る、という感覚がその時はまだ分からなかったので、気持ちが追いつかなかったです」

 避難再開直後の15時17分頃、津波はやってきた。ございしょの里は濁流に呑まれた。ここも危ない。やまざきデイサービスから、さらに約500m先の「恋の峠」(海抜44m)まで駆け上がった。

 鵜住居小の生徒数は362名。釜石東中は217名。学校から避難を続けた小中学生は無事だった。2009年から重ねてきた合同の避難訓練が奏功した。

 一方で、震災当日に欠席していた生徒が1名ずつ、避難途中で保護者に引き取られた生徒が1名犠牲になった。また鵜住居地区防災センターでは推定160名以上の命が失われた。

 震災を生き抜いた川畑は、鵜住居小を卒業後、あのとき避難を助けてくれた釜石東中の生徒になった。

 成長するにつれ、故郷・釜石について学ぶことがあった。

「進級していくにつれて、釜石がラグビーの町だということを知りました。実際に選手たちの気持ちを味わってみたいな、と思いました」

 中学時代の2015年3月、釜石はラグビーワールドカップ日本大会の開催都市に選ばれた。ラグビーって何だろう。どんなスポーツだろう――先輩の勧誘もあり、進学した釜石高校のラグビー部に入った。釜石のラグビー文化がひとりのラガーマンを生んだ。

 ポジションはスクラムハーフ。高校3年になった今、川畑は自分なりのラグビーの魅力をしっかりと答えられる、立派なラガーマンに成長した。

「ラグビーは一人ひとりの役割が感じられますし、チームで点を取るスポーツです。そこが良いなと思います」

トップリーグカップのNTTコム×九州電力戦でボールボーイを務めた(撮影:多羅正崇)

 2019年7月6日、釜石鵜住居復興スタジアムは、トップリーグカップ2019第3節の会場となった。川畑はボールボーイとして、かつて学び舎があった空の下を走った。

 スタジアムの来場は「今日で3、4回目」。初めてスタジアムを目にした時は圧倒された。

「ここに世界の選手たちが集まって試合をするんだ、という感動がありました。自分の学校のあった場所がスタジアムになるということはすごいなと思います」

 スタジアムは仮設席を含めた約1万6千席の整備が完了。7月27日にはパシフィック・ネーションズカップ2019の日本×フィジーがおこなわれる。

 ワールドカップ日本大会では、9月25日のフィジー×ウルグアイ、10月13日のナミビア×カナダのプール戦2試合を開催。長大な防潮堤の向こうから、世界のラグビーがやってくる。

「ここに来るチームの試合は全部観たいと思っています。試合の補助員をやることになっています」

 高校卒業後は「東北にいたい」という理由から、東北の大学に進学予定。釜石に育まれたラガーマン・川畑駿介は今秋、ふるさとで歴史的な日々を体感する。

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