ラグビーリパブリック

【ラグリパWest】ゲットは楕円球から人材に。 舛尾敬一郎(株式会社カナモト)

2019.07.01

写真=現在は株式会社カナモトの人事部で働く舛尾敬一郎さん。現役時代は激しいタックルと多い運動量が武器だった。後ろに映るのは同社でレンタルする建設機械



 10年ほど前、アパレルのワールドはラグビー部を持っていた。

 所属したキャップ保持者は15。
 日本代表入りこそなかったが、黙々とタックルを続けるフランカーがいた。

 舛尾敬一郎は今、カナモトにいる。

 主業はパワーショベルやブルドーザーなど建設機械の企業へのレンタルだ。
「いい会社です。上司が親身です」
 共同して働く土木現場が近いため、社内にも一体感が生まれやすい。

 褐色の肌、笑うとなくなる細い目、迫らない話し方は同じ。現役時代、182センチ、90キロだった体型は45歳になっても崩れない。濃紺のスーツは背丈にぴったり合う。

 舛尾は人事部にいる。肩書は課長代理。主に新卒採用に携わっている。
「学生を含め、いろいろな人に会えて楽しいです。同時に責任も感じます。自分の話でここに決めてくれる子たちもいますから」

 2018年1月、転職した。
 初年からリクルートを担当する。今年4月の入社は99人。関西の有力チームからは、関大の主将だった西勇樹、同大の有賀亘、京産大からは豊田秀介が加わった。

 カナモトにラグビー部はない。
「体育会というくくりで採用しています」
 設立56年目。関連会社を含めた従業員数は3000を超える。中国など海外7か国を含めた事業拠点は503。本社は北海道の札幌だが、勤務先は大阪中央営業所だ。ユニバーサルスタジオジャパンのすぐ近くにある。
「西日本はまだ攻めきれていません。名前を広げていくためにも、いい人材が必要です」

 ラグビーでのコネクションは生きる。
「僕らの世代がコーチやスタッフになっていて、すぐに話をつなげてもらえます」
 大学選手権9連覇の帝京大にも足を運んだ。
「岩出先生から、おお、おまえか、と声をかけてもらえました」
 大分舞鶴では2年から高校日本代表候補だった。その1991年度のコーチが当時、八幡工で監督をつとめた岩出雅之だった。

 自身の現役時代の特徴を話す。
「タックルと密集とサポートでした」
 密集とは、ラック、モールに参加して、そこでボールを確保したことを意味する。
 競技歴は小1から中3まで大分ラグビースクール。高校では1年からフランカーでレギュラーになり、3年連続で花園に出た。

 思い出に残るのは3回戦に進出した2年時の71回大会(1991年度)だ。
「天理に勝って、高校ジャパンの候補合宿にも呼んでもらえました」
 初戦は函館稜北を52−0。2回戦で全国優勝6回の天理を6−0で下した。8強を前に目黒(現目黒学院)に8−29で敗れた。

 前後の70、72回大会は2回戦負け。3−10で東海大相模、12−41で大阪工大高(現常翔学園)だった。最終的に高校日本代表には選ばれなかった。




 大学は専修に進んだ。
「熱心に誘ってもらえました」
 ここでも1年から公式戦出場。チームは2年時を除き大学選手権に出場するが、すべて初戦で敗退した。30回大会(1993年度)では明大に0−67。32、33回大会はともに同大に19−37、28−41の記録が残る。

 社会人で選んだジャージーはマリンブルー。港町の神戸をイメージしていた。
「チームと上を目指そうと思いました」
 ワールドの創部は1984年。10年後、本拠地を同じくする神戸製鋼を関西リーグで25−24と破る。連勝を71で止めた一戦は、在阪スポーツ紙の1面を飾った。青い小旗を振った女性たちはおしゃれで華やかだった。

 入社の翌年の1998年、舛尾は日本代表の下に位置するA代表に選ばれる。
 1999年度には第52回全国社会人大会で準優勝する。トップリーグの前身において神戸製鋼に26−35。舛尾は初戦のリコー戦で右上腕骨を骨折。グラウンド外にいたが、日本一にもっとも近づけた瞬間だった。

 2002年度から4季、主将をつとめた。
 翌年度からトップリーグが始まる。成績は5、9、9位。2006年度を最後にトップリーグから降格。2部のトップウエストAで2季を過ごす。2009年3月、休部が発表された。

 事実上の廃部である。
「チームってオーナーの思いひとつなんですよね。実質的な経営者が変わって、いつかはこうなるのでは、と思ってはいました」
 舛尾ら残った選手は六甲クラブに合流した。当然ながら社会人とクラブではレベルが違う。この時、真剣なラグビーは終わる。

 チームが消滅しても舛尾は働き続けた。
「お世話になりましたから」
 時は移り、会社は変わっていく。希望退職の募集があり、分社化も始まった。企業としては生き残りのため、避けて通れない道だが、ラグビーを通して一体感があった時代を知る者としてはさびしく映る。

 その流れの中でカナモトを知る。高校、大学の先輩、いわゆる「直系」の中村武からの誘いもあった。中村は熊本にあった社会人チーム・ニコニコ堂で監督をつとめた。同じように転職を経験していた。
 社業に専念して10年が過ぎていた。恩返しの期間として、短いことはない。

 楕円球を追い続け、持った人生観がある。
「やりきること」
 ワールドでのラグビー、そして仕事は自分の中で始末をつけた。
「負けることもありますし、一喜一憂することもありますけどね」
 勝敗は世の常。大切なのは出し尽くしたかどうか。あまたの試合から学んだ。
 次はカナモトでやりきる。