父・孝行の偉大さは伝え聞いた。
昭和初期の男は武勇伝を語らない。
松隈孝照は回想する。
「しゃべらんのが普通でした」
寡黙な父は、創部94年を誇る天理高校ラグビー部で伝説のOB指導者でもある。
コーチ4年、監督7年の11年で全国大会の優勝と準優勝を3度ずつ成し遂げる。優勝は42、46、51回大会。準優勝は44、45、50回大会。ともに1回目はコーチだった。
天理のこれまでの冬の全国優勝は歴代4位の6。準優勝は7。その約半分に父は携わったことになる。不言実行だった。
在任期間は1962年4月から1973年3月。元号では昭和37年から48年だ。
退任時、孝照は生まれてわずか11か月。その勇姿は記憶にない。
今、同じチームの監督を任されている。
田仲功一は当時、コーチとして補佐をする。
「秋田工、保善という2強の間に、天理が割って入りました。そんな時代です」
父にとって最初の頂点は42回大会(1963年)。それまでの7大会、その後の2大会を制したのは秋田工と東京の保善。回数は5と4。純白ジャージーは三つ巴の形を作った。
父は2004年11月14日に亡くなった。65歳。孝照は遺品の中からメモを見つける。
<指導者は選手を見続ける。一挙手一投足を見逃さない。そこから第六感が生まれる>
勝負に不可欠な、いわゆる「ひらめき」は、ひとつのことを突き詰めた末に自分に降りて来る。そのことが綴られていた。
父はスタンドオフなどをこなし、天理から法大に進んだ。監督就任の1966年、ラグビー部専用の勾田(まがた)寮ができる。
父は部員たちの世話を焼くため、妻・照子と住み込む。田中は振り返る。
「四六時中、生徒と一緒で、日々身を削る思いだったはずです」
常に日本一を目指す厳しい練習に、寮から逃げ出す部員もいた。
「夜中に2人で曽根崎まで車を飛ばしたこともありました」
西行きの下り列車に乗るため、大阪駅に出る。そこで警察官に保護される。監督とコーチは所轄の署まで身受けに行った。
寝食までも共にする日々の中で、部員を「見続ける」という悟りが生まれる。
今、孝照は父と同じように家族4人で寮に住み込む。
「お風呂の上に部屋があるのですが、入浴の時はうるさい。でも楽しく寮生活を送ってくれているのならいいか、って思っています」
耳で聞くことも、目で見ること同様、父のコーチング原理には沿う。
孝照は6人兄弟である。双子の姉がおり、その下に2学年上の兄・孝太郎がいる。現役時はウイングで、大産大から大阪府警に奉職した。現在は監督をつとめる。3学年下に弟・孝三。法大、クボタで主にセンターとして活躍した。3兄弟とも天理OBだ。末の妹は音楽の道を歩み、チェリストになる。
孝照はウイングとして高2からレギュラーをつかんだ。69回大会(1989年度)では優勝。決勝では啓光学園(現常翔啓光)を14−4で降した。70回大会では準優勝。連覇は熊谷工に絶たれた。9−19だった。
父に関して、高1の正月、鮮烈な思い出がある。お屠蘇をいただいた時、メンバー入りできなかったことをなじられた。
「がんばれへんからや」
名門校で、新人の立場で、当時の22人に入るのは難しい。ただ、父にとっては親として「見続けた」すえの言葉だったのだろう。
孝照は驚いた。
「普段は一切、ああせえ、こうせい、と言ったことのない人でした。だから、すごく印象に残っています」
その言葉が奮起を促し、翌年の優勝フィフティーン入りにつながったとすれば、的を射た怒りに違いなかった。
孝照は天理大を卒業後、帝塚山大のコーチなどをつとめ、2012年4月から監督に就任した。保健・体育教員でもある。
父のころと違うのは、同じ奈良県内に御所実というライバルが出現したことである。
監督の竹田寛行は社会人の「奈良クラブ」時代、監督だった父の指導を受けている。
孝照が監督になって7年。
これまでの御所実との全国大会県決勝は3勝4敗。勝って出場した93、95、98回大会はすべて8強戦で桐蔭学園に敗れている。
咋冬の98回大会、トライ数は同じ5だったが、29−44で4強入りできなかった。
御所実はその間、2度準優勝をしている。
新チームになった近畿大会と選抜大会はともに4強敗退。近畿は優勝する京都成章に14−21。選抜は御所実に21−22だった。
5月18日の県新人(春季)大会決勝では御所実に29−21。選抜の雪辱を果たす。
「まだ春。でも勝てたことは大きいです」
経験が勝利への道筋を照らしつつある。
田仲は現体制での全国優勝に触れる。
「1年でも早く勝ってほしい。親の思いを受けて、テルがやってくれたら、何よりの親孝行だと思います。意義のあることです」
今年75歳。関西ラグビー協会の副会長は思いを口にする。
天理の最後の全国優勝は69回大会。正選手だった孝照は17歳。今は47歳になった。
「いろんなOBがいる中で、選手としても、指導者としても、たいした実績がなかった僕が監督をさせてもらっています。だからこそ、みなさんの期待に応えないといけません」
父が作った黄金期。その時代を息子によって、もう一度取り戻したい。