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【ラグリパWest】校長はラグビーでできている。 津山憲司(東海大学付属福岡高)

2019.05.09

写真=東海大福岡高の津山憲司校長。ラグビーの出身で7年前にチームを立ち上げた



 津山憲司は大阪の住之江に自宅がある。
「最寄り駅は地下鉄の玉出ですね」
 海に比較的近い、市域南にある下町だ。

 単身赴任は9年目に入った。
 57歳。東海大の付属高校で教員を続ける。五高から福岡と呼び名が変わった学校に副校長として行ったのは2011年のことだった。

 今の肩書は「校長」。最高責任者だ。
 赴任の翌2012年に立ち上げたラグビー部は8年目を迎えている。

 盟友・土井崇司は2歳下の津山を表現する。
「情熱という看板を10個くらいぶら下げている人物です。常にキャンパスに絵を描き、それを実現するために走り回っています」
 2人は全国優勝2回の仰星(当時)を監督と部長やコーチとして引っ張った。

 土井は相模の総監督を続けながら、中等部の副校長になった。2人の職場は大阪から神奈川と福岡に変わるが、その評価は不変だ。

 浮羽究真館の監督・吉瀬晋太郎は言う。
「創部をしたことを含めて、津山先生は本気で福岡制覇を考えておられます」
 吉瀬と津山がいる県内には「ジャイアント」と称される東福岡がある。創部時2012年までの全国大会の優勝は4回、連続出場は12年。今はそれを6と19に伸ばしている。
 並みの指導者なら、そんなチームと戦う気は起こらない。

 現在33歳の吉瀬は2015年、OB監督として同校に赴任した。ほぼ無名の公立校を指導4年目で県4強に押し上げる。
 就任時に目標を立てた。
「10年で高校ラグビー日本一」
 京都産業大時代、監督・大西健の下で全国屈指の猛練習から逃げず、公式戦に出た。
 怖いものはない。




 津山は土井と日本一チームを作り上げた経験がある。ノウハウが染みついている。
 吉瀬とは持っているものこそ違えども、同じように東福岡へのアレルギーはない。

 津山が仰星に国語科教員として赴任したのは1988年。土井がこの新設校にラグビー部を作ったのはその4年前。関西大でフランカーとしてならした津山は補佐役になる。

 津山が来て4年後、全国大会に初出場する。72回大会では8強に進出した。
 79回大会で初めて頂点に立つ。決勝は埼工大深谷(現正智深谷)に31−7。主将はフランカーの湯浅大智。仰星現監督だ。エースは1年生ウイングの正面健司(近鉄)だった。

 86回大会では、東福岡を19−5で降し、2度目の戴冠を果たす。当時はロック、東海大でフッカーに転じる木津武士(日野)、スタンドオフには山中亮平(神戸製鋼)という後年日本代表になる3年生を擁していた。

 津山は相模で過ごした2年を除き、仰星での21年を下地に、小倉と博多のほぼ中間、宗像で創部する。
 そして、土井の描写通りの動きをする。

 東福岡を上回るため、40人収容のラグビー部寮を作った。2年前から東海大との7年計画によるトンガ人留学生の受け入れも始める。3年生センターのポロメア・フィナウは180センチ、98キロの体を生かした突破力で、すでに高校日本代表に選ばれている。

 人工芝グラウンドは平日週3日、地元のトップリーグチーム・サニックスが所有するものを使わせてもらっている。普及・宣伝担当のチーフをつとめる向井清一は仰星時代の教え子だ。そのような縁も有利に働く。




 大学への出口も東海以外に多様化させる。関西リーグの上位校では母校の関西を含め、京都産業、大阪体育、同志社に卒業生がいる。津山の長男・翼(たすく)は東海大4年生。五高から進んだスクラムハーフだ。

 ラグビー部の全国大会出場はない。
 96回大会予選(2016年度)では唯一の決勝進出も東福岡に0−85で完敗した。
 選抜はその前年度に1回。チャレンジ枠(現在は実行委員会推薦枠)で16回大会に出る。2勝1敗で予選リーグ敗退になる。札幌山の手は33−12、相模は24−21、常翔学園には12−41だった。

 チャレンジ枠での選抜出場は東福岡との県新人戦が評価基準となった。
「準決勝でスコアは7−22だったと思います。ヒガシの背中が一番見えた時でした」

 今年1月の新人戦は決勝に進出するも、東福岡に0−100と歯が立たなかった。続く福岡2位で出場した九州大会では1回戦で佐賀工に7−76と大きく差をつけられる。

 津山が校長になったのは2017年4月。
 その段階でラグビー部の総監督は下りた。監督の笠松高志にチームを託す。今は学校のさらなる良化に心を砕く。
「日本一の学校にしていきたい。色々な仕掛けをしながらですね」
 ラグビー部での経験が生かされる。

 生徒たちの満足度を上げるために、教員の授業内容をアンケートにとり、ベスト10を表彰するようにした。
「大学の合格者数も大事だとは思いますが、生徒が授業に満足してくれれば、その数字はあとからついてくると思っています」
 4つのコースも整備した。スーパー特進は難関受験とアスリート、進学は1類と2類。生徒のレベルに合わせて収容力をつける。

 スクールバスも導入する。東西にはJRの鹿児島本線が貫くが、不便とされる南北にバスを走らせ、広域の地元生を取り込んだ。
「ここに来た時は1学年200人ほどでした。今は400人になりました」

 津山は続ける。
「サッカーや野球が全国優勝をしてくれたら学校もおおいに影響を受けるはずです」
 サッカーは冬の選手権に14回出場。69回大会(1995年)では3位に入った。野球は春の選抜に2回(89、57回)出ている。
 野球とともに、東海グループの校技でもある柔道からは、世界王者についた佳央、行成、兼三の「中村三兄弟」を輩出した。

 ラグビーの名前は出ない。実績的に同じ俎上に乗せられないこともあるが、津山の美徳でもある謙譲が顔をのぞかせる。自分の出身をひいきしない、という戒めがある。
 しかし、楕円球のクラブが日本一になっても、その影響力がない訳ではない。