常翔啓光学園が再スタートを切った。
部員は6人である。
ラグビー経験者は半分。あとは野球やバレーボールをしていた。
前校名の啓光学園時代を中心に全国大会を制すること7回。歴代3位の記録が残る。
81回大会(2001年度)からは、戦後唯一の4連覇も成し遂げた。
今、視界にあるのは過去の栄光ではない。未来である。
大阪府の春季大会は合同で出場する。1963年(昭和38)の創部以来初めてだ。
近隣の牧野、枚方(ひらかた)、北かわち皐が丘、枚方津田、長尾と「A」を結成した。新入生の出場は、安全面から認められない。
予選リーグの初戦は4月7日だった。上宮太子に17-26。2戦目は14日だった。近畿大付に0-61。連敗で春の公式戦を終えた。
「みんな頑張ってくれました。15人制でしか感じられないこともある。よかったです」
今年38歳になるOB監督の川村圭希には満足感がある。
今年1月の新人戦は10人制に登録しながらも棄権した。
新3年生の全5人、新2年生の2人が勉強などを理由に退部したからだ。
昨秋の全国大会予選は15人制に出た。第一地区の決勝トーナメント1回戦で日新に12-19。敗戦直後、7人が抜けた。
川村の表情は曇る。
「僕がプレッシャーをかけ続けた結果です。戻ってくれるのを待っていたんですが…」
絶対的な目標は全国大会出場。しかし、今の部員たちにそんな野望はない。
その状況を見かねた吉田聡が声をかけた。合同を取りまとめる牧野の監督である。
川村は振り返る。
「ご縁を大切にさせてもらいました。生徒たちからも大会をひとつ空けた分、試合をしたい気持ちが伝わってきました」
吉田は1994年度の高校日本代表のコーチもつとめた。守口東の監督時代、全国予選決勝に出る。68回大会(1988年度)だった。得点は3-29。くしくも対戦相手は啓光学園だった。花園出場は21大会ぶり2回目。まだ全国頂点には至っていない。
吉田はこのチームの輝き始めから知っている。当時の教え子には人気漫才コンビ「中川家」の兄・剛がいる。
20人に増えた仲間はラグビーが第一ではない。競技推薦で大学を狙う者も皆無だ。
「いややったら帰れ、やる気がないんやったら出ていけ、じゃあないんですよね。言葉の選び方、練習メニューを変えるなど、やり方はいくらだってあるんです」
川村は指導の中で気づきを得る。
現校名になったのは11年前だった。2008年4月である。
学校経営の行き詰まりから、大阪工業大や摂南大などを持つ常翔学園グループに吸収される。男子の中高一貫校には進学校化する方針が示され、共学に変わった。
ラグビーによる推薦入学、スポーツクラスはなくなった。当時の練習開始は午後2時。今は5時になる。授業は7時間。放課後の活動は1時間30分のみだ。
チームも学校もまったくの別物になった。
新しくなった学校のシンボルは西側にそびえる「クライミング・ウォール」だ。ワンダーフォーゲル部が岩登りの練習で使用する。
「15メートルあります。国内でこの高さは少ない、と聞いています」
学校の援助はないわけではない。則竹浩司と岩井一馬の2人の教員コーチは残る。
則竹は体育担当。大阪桐蔭から大阪体育大へ進んだプロップだ。岩井は大阪教育大でウイングなどをこなした。この4月、理科の新卒教員として着任する。
川村は監督就任7年目に入る。今は中学の社会と技術を教えている。
この中高から関東学院大に進学。マネージャーとして4年時の40回大学選手権(2003年度)を含め学生王者を3度経験する。
父は高校日本代表監督、大阪府の教育行政トップである教育監をつとめた幸治だ。
川村の生まれた1981年度は高校ラグビーの監督として名を成している者が多い。
大学の同級生、霜村誠一は昨年度の98回大会で桐生第一を花園に初出場させた。
「ライバル意識はすごくあります。霜村にしても、湯浅、梶村、ゴンちゃんにしても」
湯浅大智は東海大大阪仰星、梶村真也は関西大学北陽、「ゴン」こと権晶秀(くぉん・じょんす)は大阪朝高をそれぞれ率いる。
「でも、彼らを見て、余計に意地を張っている自分がいることを知りました」
合同チームでは、伝統という重圧から解き放たれ、笑顔でパスをつなぐ部員たちを見た。
「負けたら悔しいです。けど、楽しそう」
木田匡哉は昨夏の終わりに入部した。
中学まではサッカー、高校ではバレーボールを選ぶ。
「コートの広さに物足りなさを感じました」
佐藤侃太(かんた)がずっと誘ってくれていたラグビー部の門をたたく。
「昔、強かったというのも聞いていたし、ついていけるかな、と思いました」
手探りの状態の日々だったが、大量退部の時も同調しなかった。
「自由に走れることが面白かったし、もうクラブをやめたくはありませんでした」
木田はサッカー経験者ながら、蹴りが下手だった。スタンドオフ出身の川村は教える。
「チャーシュー麺で蹴ってみ。チャー、シュー、メーンの時に足を出す」
こつをつかむ。40メートルは蹴り込めるようになった。今ではフルバックの位置に入り、エリアを獲れるひとりになる。
夢は消防士になること。そのためもあってラグビーを選んだ。
「体を強くしたいんです。家ではごはんをお茶碗4杯から5杯食べるようにしました」
川村も部員の体力強化に余念がない。
「体を作ることは大事にしたいです」
部費から補助を出して、学生食堂とタイアップ。親睦を深めるため、朝は160円の豚汁を全員で食べる。昼は410円のおかずを出してもらう。白ごはんを1回2合、計4合を各家庭から持参させている。
保護者の金銭的な負担も考えて、極力バッグやウエアーなどもそろえなくなった。
「お金のかかることがハードルにならないようにしようと思っています」
練習ジャージーなどは引退した部員たちのおさがりを使ったりしている。
新しい試みをしながらも、練習では「リップ・ガット」など伝統的攻撃を忘れない。
最初が当たり、2人目がもぎ取り、3人目がそのボールをトップスピードでもらう。
「2人目は肩から当たらないと」
川村は手を腰の後ろでつなぎ、高校生たちに流れるような模範を見せる。
よりよい継承のためには、多くの新入生に楕円球に触れてもらう必要がある。
入学式は4月6日にあった。
リーダーの大津直人は決意を口にする。
「休み時間も教室を回って、勧誘します」
1年生は中学より10クラスほど増える。
「10人は入ってくれると聞いています」
川村の表情は明るい。その人数が集まれば、単独チームとして復活する。
大津も咋冬に退部しなかった。
「一緒にやめてしまったら、今までやってきた意味がなくなります」
この中学で競技を始め、昨年は少人数制の大阪選抜に入った実績もある。スピード豊かなセンターだ。
「秋は常翔啓光として単独で出たいです」
クラブ、学校、そして時代も変わる。
大切なのは、その変革にどう対応していくか、ということだろう。
川村ら顧問、そして6人の部員たちはその難問に真正面から取り組んでいる。