時々、耳にする。
「あのコーチには哲学がある」。
それはなにを意味するのか。
『広辞苑』(岩波書店)で「哲学」を探す。②として書かれてある。
<俗に経験などから築き上げた人生観・世界観。また全体を貫く基本的な考え方・思想>
その具体像を示したラグビー指導者が半世紀以上も前にいた。
中島義信。
近鉄の監督を2期12年つとめた。
全国社会人大会(トップリーグの前身)ではチームを初の頂点に導いた。優勝回数4はチーム記録の半分である。制した日本選手権3回のうち、その最初にも関わった。
1929年(昭和4)創部の近鉄ラグビー部は2冊の書籍を有する。『50年史』と『70年史』。そのどちらにも中島は登場する。
元部長の藤井賢三は『70年史』に記す。
<あれだけ見事に自分の哲学で一筋を貫き通された人を私は知らない>
プロ野球・近鉄バファローズ(現オリックスバファローズ)の球団社長や鉄道の専務を歴任した人物にとって特別な存在だった。
1966年度、近鉄はチーム初の2冠を達成する。社会人大会決勝ではトヨタ自工(現トヨタ自動車)に15-3。その後の日本選手権では早稲田大を27-11で破った。
当時、中島は持病の腎臓が悪化。前年度で監督を退任していた。
大会前、ロックの中山久が首を痛める。後任監督の福田廣から代役の相談を受けた。
サンケイスポーツの記者だった津田一己はその状況を『50年史』につづっている。
<中島前監督は『うしろから実際に押させてみないことには…』と、腎臓病で入院中の日赤病院には『上六へちょっと買い物に行く』と断り、ナイター練習中の花園へ…>
中島はフッカーだった。
日本代表キャップは2。近鉄の現役だった1952年、オックスフォード大との2試合(0-35、0-52)に出場した。立命館大出身者としても12人のキャップホルダーの先鞭をつけた。その経験をもとに、現役を相手にスクラムを組み、重さをフロントローに伝えられる選手を選別する。
抜擢したのは高卒2年目の前田弘だった。
<さすがに中島さんの目は確かであった。全国大会では、この前田がみごと期待に応えて完ぺきな代役をつとめ、おかげで近鉄は実力を出し切って優勝。ハズミをつけて第二期黄金時代へと前進した>
日本選手権は1967年1月15日。当時は固定された成人の日に行うのが慣例だった。
中島は栄光を確かめた約2か月後、3月25日、ひっそりと逝く。男盛りの47歳。ラグビーで倒れることは本望だった。
中島は熱だけの人ではない。楕円球を突き詰める。理論もあった。
1959年、新聞表記は「カナダ」のブリティッシュ・コロンビアを近鉄が単独チームとして破る。スコアは16-9だった。
日本代表は2戦1分1敗。花園では17-21、秩父宮では11-11である。
中島は外国人対策として、日本人が持つ「初動が早く起こる優位性」をいかにして発揮するかということに心を砕く。
その結果、攻守のラインを浅くさせる。
<アタックは従来のごとく比較的余裕のあるラインではなく、横にボールを回し、パスされた瞬間において相手のディフェンス・ラインを突破する>
本人が『50年史』に書いたのは、フラットラインである。
ディフェンスも<あさく>させた。
いわゆるシャロー。飛び出させる。
攻守ともに今のラグビーの王道を行く。
日本ラグビー史に燦然と輝く勝利がある。
ジュニア・オールブラックス(ニュージーランド代表の下のカテゴリー)を日本代表が23-19で破る。この快挙は1968年。中島の戦勝はそれよりも約10年先んじていた。
2冠の前年、1965年に同志社大から加わった坂田好弘は今でも尊敬の念を抱く。
「すごい監督やった。病気になってもグラウンドに立ち続けておられた」
今年9月、喜寿を迎える関西ラグビー協会会長が直接指導を受けたのはわずか1年。しかし、その威厳を忘れない。ウイングだった坂田はジュニア・オールブラックス戦にも出場。最終的にキャップを16獲得した。
哲学を持つ指導者は絶えない。
湯浅大智。
今年38歳。若き東海大大阪仰星の監督は以前、「エア・モール」で賛否が分かれた時、鮮やかに言い切った。
「それはLawの精神に反します」
Law=ロウとは法律の意味だが、ラグビーでは行動規範と訳されることが多い。
ラインアウトでモールが形成されれば、わざと組まず、押させる。程よいところまで誘い込んでおいて、一気に崩して止める。
湯浅は違う。ボールの投入時点でコンテストは始まっている。そのモールに瞬時に圧力をかけないのは、争奪をひとつの旨とするラグビーではない、という考え方である。
湯浅は仰星の全国優勝5回、歴代5位の記録にすべて絡む。選手とコーチで1ずつ、監督として3。自身の中にある哲学がそれらを引き寄せたとは言えまいか。
仰星は3月の近畿大会で2位。それに続く選抜大会では、8強戦で準優勝する御所実に14-26と敗北した。近畿大会では36-12と快勝した雪辱を受ける。
選抜後にショートメールが届いた。
<残念ながら敗れてしまいました。出直します。足りない部分が明確になりました>
仰星は昨年、全国大会にすら出られなかった。府予選決勝で常翔学園に7-54。連覇の夢は大差でついえた。しかし、トップレベルのチームをまた、作り上げてくる。
春4月、桜吹雪に迎えられながら、新しく教える側にまわる人たちもいるだろう。
勝ち負けはもちろん大事。しかし、勝敗を超えて残るのはチームであり人である。
哲学を持つ。
明確な自分自身の指標を作る。
それは、小手先のテクニックを身につけさせるより大切なことである。