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【ラグリパWest】バレーボール部との共闘で15人 福岡県立久留米高校

2019.04.01

共闘を実現した久留米高校ラグビー部とバレーボール部の部員たち。バレーボール部の東源太主将(前列左から4人目)とラグビー部の岩熊健成主将(その右)はお互いにボールを持ち替えている。後列右端はラグビー部顧問の石藏慶典先生、前列左の女生徒3人はラグビー部マネージャー



 15人制に出たいけど、人が足りない…。

 高校ラグビーの救いの手は合同チーム。
 人数不足に悩むチームがジョイントして公式戦などを戦います。

 その流れの中で、別の形を示したのは久留米(くるめ)でした。福岡南部の県立進学校はバレーボール部との共闘を進めます。

 ラグビー部顧問であり、保健・体育を教える石藏慶典先生は言います。
「できるやり方を考えました」

 新3年になる両主将、ラグビー部の岩熊健成君とバレー部の東(あずま)源太君は入学時、クラスの出席番号は1番と2番。前後で仲良くなりました。

 昨秋の新チーム結成後、ラグビー部は8人、バレー部は3人に減りました。
 バレーも6人が必要なため、試合ができなくなりました。元々、久留米は学校自体の人数も少なく、1学年200人ほど。そのうち男子は約70人しかいません。

 両主将が先生を交えて話し合った結果、公式戦での部員の貸し借りが決まりました。
「お互いに無理やけん、一緒にせんね」

 岩熊君はスクラムハーフ。小3から地元のりんどうヤングラガーズで競技を始めました。合同の短所を話します。
「練習場所まで交通費がかかります。あと、平日は一緒に練習できません」
 トレーニングができるのは、休日である週末が中心。母校が異なるため、結束力なんかにも影響が出たりもしますよね。

 久留米は日々の練習に関して、体育館を使える日はバレー、グラウンドの場合はラグビーをする取り決めをしました。
 183センチの東君はフルバックに起用されました。自分たちの「排球」と、助っ人として入る「闘球」を比べます。
「僕たちはネット越しだけど、あっちは体を当てるから熱を感じます」

 先生はバレー部に指示を出しました。
「怖かったら逃げろ。後ろから追えばいい」
 東君の学年は授業でラグビーを経験済み。素人ではありませんが、先生は安全面と精神的負担を減らすことを考えました。




 ラグビー部はまず、8人全員が12月のバレーの県新人戦に出ました。相手は久留米大付設でした。
 岩熊君は振り返ります。
「僕たちは練習から、とりあえず拾って返す、ということを続けました」
 トスを上げるセッターやそのボールを打つアタッカーなど、年季のいるポジションは、東君ら3人の部員が担いました。

 痛みをものともせず、レシーブをしまくり、第1セットは27-25で取りました。
「いけるんじゃないか、と思いました」
 まあ、現実はそう甘くない。結果的にはセット数1-2で負けてしまいました。
 この日、ラグビー部は10人制の大会を棄権して臨んでいました。

 バレー部は恩返しをしてくれます。
 今年1月の県新人戦には3人全員が参加してくれました。
 足りない4人は、先生が奔走。授業経験者を2人、陸上部の投擲選手、そして完全未経験者の新2年生を連れてきました。
 結果は県南の名門・明善に0-117。
 敗れはしましたが、久留米高校として15人で試合ができました。

 岩熊君にあるのは謝辞だけです。
「みんなには感謝しかありません。怖い印象のあるラグビーなのに、それを押し切って出てくれました」

 先生には葛藤があります。
「助っ人に来てもらうと、申し訳ないけれど10ある力が出せない。7か8になります。合同なら経験者同士なので落ち込みは少ない。1年間、練習をやって、公式戦3試合で終わらせてしまってよいのだろうか。勝ちたい、という部員たちの気持ちを無理矢理押さえつけていないかな、と思ったりします」
 県の15人制は新人戦、春季、全国の3大会のみ。いい思いをするのは難しいのです。

 同時に先生はプラス面も口にします。
「仲間を作る、ということですね。違うクラブの部員たちとも仲良くなれる。それに、ラグビーを広める、という点もありますね。15人集めて、経験してもらう。今年は日本でワールドカップもありますしね」
 先生は近くの小学校でタグラグビーの指導もしています。




 48歳の先生は福岡教育大で競技を始めました。ポジションはセンター。出身は強豪の筑紫でしたがバスケットボール部でした。
「高校で盛んだったので興味はありました。それにスクール☆ウォーズの世代でしたから」
 ラグビーを世間に広めた伝説のテレビドラマも背中を押すきっかけになりました。

 先生の浮羽時代の教え子に吉瀬晋太郎監督がいます。浮羽が統合された浮羽究真館を率いています。監督は就任4年でほぼ無名のチームを県4強に導きました。
『ラグビー・マガジン 5月号』(ベースボール・マガジン社)で田村一博編集長の取材を受け、恩師の思い出を語っています。
<高校時代、先生は15人のタックルを受けてくれました。そのときの先生の顔、バインドしたときの太もも、アキレス腱あたりの感触はいまでも憶えています>

 今、それは「吉瀬タックル」と名前を変えて伝わり、浮羽究真館の公式戦前のハカ(ウォークライ)のようになっています。
「あれはパクリなんですよね」
 先生は笑います。大学の先輩、市山良充監督が長崎南山でやっていたことを真似ました。その光景を見た1999年、長崎南山は全国初出場を決めます。79回大会でした。

 情熱を秘めた先生は、この4月、久留米筑水に転任します。
 そこにはラグビー部はありません。
「久留米のラグビーを存続していってもらえたら」
 先生は春季大会のエントリーを15人制で済ませました。

 久留米の全国大会出場はありません。
「新人戦のベストエイトが最高成績だと聞いています」
 それでも、先生が部員たちとつないだチームは来年、創部50周年を迎えます。


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