ラグビーリパブリック

宗像サニックスブルースひと筋13年、やり切った。杉浦敬宏の誇りと愛。

2019.03.27

笑うと、細い目がさらに細く。ラストイヤーは主将も務めた。



 なにげなく口にした言葉に、誇りと愛情がにじんだ。
「このチームのことしか知りません」
 宗像サニックスブルースひと筋13年。杉浦敬宏が2018-2019年シーズン限りでの引退を決めた。
 岡崎城西高校、愛知工業大学を経て宗像へ。トップリーグに同窓の友はいないから、情報交換をしたり、その結果、他を羨んだこともない。
 チームと仲間を家族のように愛した。

 穏やかな性格。喋りすぎない。優しい顔。
 ただ、努力家で誠実というだけなら、13年も第一線でやれなかった。
 反骨魂がエナジーだった。
 以前は「(他チームの有名な)同い年の選手たちがプレーしている間はやめない」と話していた。日野レッドドルフィンズのFL佐々木隆道らが同い年だ。
 しかし2018-2019年シーズンを終えて、「やり切った」とブーツを脱いだ。
 左の膝がボロボロだった。

 13シーズンでチームの公式戦に141試合出場。トップリーグには115試合出た。
 日本代表としてテストマッチ1試合を経験(香港戦)。キャップを得た2007年におこなわれたワールドカップのバックアップメンバーにも選ばれている。
 フランスで大舞台こそ踏めなかったが、名の知れたライバルたちとの競争に勝って決戦の地へ向かえたのは誇りのひとつだ。

 全国上位の力があった西陵商に勝ちたい。その思いで走った10代。高校3年時はそのターゲットに、愛知県予選でいちばんの失点をさせた(26?45)。
 東海学生リーグで戦った大学時代は、自分たちより部員が多いチームに勝ちたくて必死になった。
 名城大が強かった時代。同大学に続く2位となり、当時対戦相手を指導していた藤井雄一郎コーチの目に止まる。のちにサニックスの監督となる同氏に誘われ、トップリーグでのプレーが叶う。
 チャンスはすべて、自身の手でつかんだ。




 強豪校出身者はほとんどおらず、叩き上げの選手が大勢いるチームの空気が合っていた。機動力あふれるフロントローとして存在感を示した。
「スクラムは押されてもいいから、走れ。あの頃は、そういう雰囲気がありました。走る練習が多かったので、大学から入ったときは102キロあった体重が95キロになった。(プロップ大型化の)いまの時代では考えられない!」
 チームは2006年度に5勝(1分け)、2009年度に6勝、2010年度に5勝(1分け)と、リーグ中位に位置した。

 2016-2017年シーズンには、地元・グローバルアリーナで東芝に勝った(31-21)。それがもっとも記憶に残っているのは、チームに入った頃、ウエートルームに大きな字で『打倒・東芝!』と書いてあったからだ。
「目標としていたチームにホームで勝てた、と思ったんです」
 トップリーグの舞台に100回以上も立ちながらマン・オブ・ザ・マッチは一度だけ(2010年12月5日のNTTコム戦/41-38)。そちらも地元での試合だった。

 プロ選手として活動してきた。周囲の仲間たちも、同様にラグビーで生きている。
 そんな環境が、チームのしぶとさと結束を生んでいると感じる。
「プレーで結果を残す。全員が、ラグビーで勝負する気持ちをもっています。だからプライベートな時間でも、絶対にラグビーが頭の中にある。試合に出られる、出られないは、試合の前の(選手同士の)勝負に負けたから。それが分かっているから、また頑張る。お互い同じ状況で競い合っているから認め合えるし、信頼もできるから、みんな仲がいい」

 この春からはコーチとしてブルースを強化する側にまわる。
 ここ数年、日本代表やサンウルブズなど、トップチームの練習の場に足を運び、指導者となるための基礎作りをしてきた。その蓄積を、後輩たちへ伝える。
「このチームが好きで、長くプレーしてきました。選手のときと立場は変わりますが、勝てるチームにするための力になりたい」
 スクラムは押されてもいいから走れ、とは絶対に言わない。