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「私は、ぶれない」 日本ラグビーへの恩返し(1)

2019.03.12
クボタ スピアーズを離れるオツコロ選手。トレーニング室で(撮影:BBM)

クボタ スピアーズを離れるオツコロ選手。トレーニング室で(撮影:BBM)


 大学卒業後、クボタスピアーズで13シーズンを戦ったトンガ出身選手がチームを離れることになった。プレー続行を希望しているが、まだ決まった話はない。スピアーズのクラブハウスで、彼はその日も一人でトレーニングを続けていた(全2回)。

 オツコロ カトニ、CTB。187センチ、108キロ。日本代表キャップ3。トンガはトゥポウカレッジから埼工大深谷へ留学し、埼工大を経て2006年にクボタスピアーズに加入。はじめは社員選手だった。トップイーストへの降格なども経験しながら13年間在籍した。

 長くチームが彼を必要とした理由の一つにリーダーとしての資質がある。ミスター・ストイック。プロフェッショナルとして心身のコンディションづくりは徹底していた。トレーニング場の施設を誰よりも活用し、一人黙々と体を鍛える。密かに、チームが購入したのと同じ仕様のトレーニング機材を自費で自宅に置いたりもした。試合のフィールドにいなくても、チームの精神的な支柱だった。後輩選手たち、外国籍選手たちに日々声をかけ、時には相談に乗った。

 ワールドカップイヤーに伴うシーズン期間の影響もあり、昨年来、各チームの人の動きが激しい。プレーで、メンタルで、トップリーグを支えた海外出身選手のバックグラウンドと、プレー継続を望む心境について聞いた。


 13年のシーズンを振り返ってもらうと、初めに出てきたのは日本人の名前だった。

「このチームとの縁を繋いでくださったのは、黒澤さん(利彦/元クボタラグビー部監督、現クボタ専務執行役員)。当時のスカウトの方で、大学生だった私に、熱心に声をかけてくれました」

「大学生の頃、クボタに行きたい、と思ったきっかけは、トウタイ・ケフさん(現トンガ代表ヘッドコーチ)がいたこと。選手としてオーストラリア代表までいった人ですが、同じトンガ人の先輩として憧れていました。彼の近くで、考え方や立ち居振る舞いまでを目にしたいと思っていた。その気持ちを、黒澤さんが繋いでくださった。大学までなんども足を運んでくれました。他のチームからの誘いもありましたが、ここ以外ないと私の中で決めました」

 2018年シーズンはカップ戦4試合に出場、最後の試合となったパナソニック戦(1月19日)のグラウンドに、その黒澤さんの姿があったという。


「下まで降りてきてくださったのは初めてでした。黒澤さんはその後、クラブの中での役職が変わったので、チームの施設では一度もお会いしていません。試合会場ではブースなどでお顔を見つけることがあり、そのたびに、声をかけてくださっていた。試合に出ている、いない、関係なかった。私はいつも彼のサポートを感じて過ごしてきました。後で聞いたのですが、黒澤さんにとって、僕らはスカウトとしてチームに引き入れた最後の代だったのだそうです。最後の試合まで見守ってくれて、本当にありがたい気持ちでした」

 13年は一瞬だった、とオツコロ選手は振り返る。

 自分のするべきことを毎日、やりきることに集中していた。感傷に浸る間もなく駆け抜けてきたのだろう。そこまでストイックであり続けられるのはどうしてなのか。尋ねると一言、「私は、絶対にぶれない」と返ってきた。

「自分の心に決めたことは、絶対にやります。たとえば一つのアタックの中で、ゲインラインまで運ぶと決めたら、なんとしてもその線は超える。私はもともと、うまくもないしデカくもない選手でした。その中で自分の生き方をつくってきた。私にとってのラグビーは故郷のトンガ時代から競争の環境でした。上下関係もあるし、昔は、いじめに近いものもあった。国の代表になりたかったらさらに厳しい凌ぎ合いがある。私は早い段階で、そのトップの集団には離されてしまった。それでも、トンガ以外の国であっても、国の代表選手にはなりたかった」

(PH 02)2013年の東芝戦。浮き沈みもあったチームで13年、
プレーを貫いた(撮影:BBM)


 8人兄弟の3番目。貧しい家に育った。勉強は得意でなかったが、何かで身を立て両親を助けたいと願っていた。

 父親がよく言っていたのは「やられたら、やり返せ」。

 カトニはその言葉を、こんな風に解釈して生きてきた。

「やられっぱなしで終わるな。他人とは違う秀でたものを探って、一人前になれ」。本格的に体格が成長したのは日本に来てから。それまでは「うまくないし、デカくもない」選手として、懸命にもがいてきた。

 縁あって15歳の時、元日本代表のノホムリ・タウモエフォラウさんが、日本の高校への留学の道を紹介してくれた。しかし、カトニが日本へ来るのは翌年に延びた。思いもよらないことが原因だった。

「おじいさんに、反対されました。私のおじいさんは自分の手を見せて、戦争中に日本の侍に切られたんだと言いました。おじいさんは小指が無かった。その時にどんなに悔しい、惨めな思いをしたのか、私には話してくれませんでしたが、涙を流して言いました。日本に行くことは許さない。私は、おじいさんの気持ちを考えると行くことができなかった」

 まだ幼さも残るカトニの胸に強烈な印象を焼き付けて、おじいさんは翌年、他界した。
 
 あらためて日本への留学の希望を聞かされた父親は「自分の道は、自分でひらけ」とだけ言った。
 
 自分が自分の足で歩める道を作るには行くしかないと、かえって肝が据わった。覚悟を決めて、日本に飛び込んだ。
 
 トンガからの留学生の多くがそうであるように、カトニは入学から高校を卒業するまで、一度も家に帰ることはなかった。メールもない、手紙のやり取りもままならない異国の暮らしの中で、3年間必死にラグビーに取り組んだ。同じグラウンドでボールを追い、同じ釜の飯を分け合っていても、一般の高校生とは境遇が、まるで違っていただろう。

 日本で接する人々は、祖父の体験とはかけ離れ、優しくてとても親切だった。カトニは体も大きくなり、期待され、なんとかそれに応える日々の中で感謝に心を包まれていった。

「初めは、高校が終わったらすぐにどこかのチームでプレーしなくてはと考えていた。勉強は好きな方ではなかったし。それでも、やはり大学に進もう、と思ったのは後輩のため、後輩の後輩たちのため。次の時代のためです。ラグビーをやりたくてもできない人もいる」

 日本の社会で大学に進むことは大きな意味を持つと感じた。その道を、後に続く人のためにも繋ぎたいと思った。今踏みしめる一歩は自分だけのものではない。

「私は絶対にぶれない」

 一見、頑なにも響くその言葉の後ろには、まだ幼かった日に固めた覚悟、家族と日本の人々への感謝がある。
(第2回に続く)

トップリーグ・デビューは2006年第5節のリコー戦。
タックルに行くカトニ(撮影:江見洋子)