ラグビーリパブリック

【コラム】チェーン居酒屋の夜から

2019.03.07
2000年、ノースハーバーの試合後のウォルター・リトルと息子たち。手前右の後ろ姿が、マイケル・リトル(撮影:Getty Images)

2000年、ノースハーバーの試合後のウォルター・リトルと息子たち。手前右の後ろ姿が、マイケル・リトル(撮影:Getty Images)

◾️ 敵将いわく、こっちだってウォルター・リトルをお借りしたかった。

 昔、わが曼荼羅クラブの有志たちは、試合や練習のあと、居酒屋チェーンに繰り込んで、チームワークをいっそう固めるのを常としていた。日曜の夕刻、こんな響きが、ほどけた円陣のあたりを飛び交う。

「ノースファミリーで」
「いやファイティングティールーム」

 当時、羽振りを利かせた居酒屋チェーンをそう呼んだ。前者が『北の家族』、後者は「やるき茶屋」に決まっている。『村さ来』は字が違うのに「パープル」。

 先日、サンウルブズがチーフスを敵地でやっつけた。スーパーラグビー史上最大級のアップセット、番狂わせである。30-15。オールブラックス選手の休養の観点から主力の一部を出場させなかったり前半でひっこめたりしたとしても、絶対にえらい。国際ラグビーの秩序は乱れた。この3月中旬、スーパーラグビーの統括組織のミーティングが開かれ、現行の放映権終了後の運営が話し合われる。「チーム数削減」の意見は根強く、本稿執筆時点でサンウルブズの将来はまったく不確かだ。そうした情勢に一矢を報いる白星でもあった。

 さて。ウルブズことサンウルブズのうれしい勝利に「ノースファミリー」を思い出した。2001年6月13日の夜の逸話である。

 その夜、ウェールズ代表は東京スタジアムにおいて敗北した。ジャパンにではない。トップリーグ創設前の当時でも日本列島の各チームに散らばったニュージーランダーを軸に編成された「パシフィック・バーバリアンズ」に。16-36。ブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズにグラハム・ヘンリー監督、主力選手を差し出したとはいえ、誇り高き真紅のジャージィをまとう強国はまさに完敗を喫した。

 試合後、たぶん六本木あたりの美酒の夜へ消えたバーバリアンズの海外勢をよそに、フロントローに固まっていたアジア組、リコーの小口耕平(押すのでなく押されないスクラムの達人)、ワールドの北迫孝治、三洋電機の佐藤明善、そして韓国の怪力男、背番号3の洪正杓(ホン・チョンピョ。延世大学校→三星SDI→白鴎大学→横河電機)は、京王線沿線の「ノースファミリー」か「ファイティングティールーム」、もしくはそのたぐいの店でひっそりじんわり祝杯を楽しんだ。いつだったか、ソウルへ帰ったホンちゃんが「記憶は薄れましたが小口さんはいました。ほかにも数人」と話してくれた。ウェールズに勝利しながらチェーン居酒屋へ。非英語圏出身者の悲哀という意味でさみしいような、でも、なんとなく好きなストーリーだ。

 あの夜のゲームの中心人物は、パシフィック・バーバリアンズの10番、三洋電機所属のウォルター・リトルである。記者会見でウェールズのリン・ハウエルズ遠征監督はこんな内容を話した。

「こっちだってウォルター・リトルをお借りしたかった」

 オールブラックスで50キャップのウォルターとは、サンウルブズの共同キャプテン、マイケル・リトルの父である。サニックスのグレアム・バショップ(SH、オールブラックス31キャップ)との確かなコンビネーションはウェールズをしょんぼりさせた。

 ウォルター・リトルは、フィジーをルーツにニュージーランド北島はトコロアに生まれ育った。際立つラン、鋭利なコンタクトで早くから注目を集め、1988年、18歳でノースハーバー代表に呼ばれた。背を丸めて、滑らかにパスを受けるや、迷いなく前へ走り、流れる軌道と鋭角のステップを組み合わせながらゲインを切りに切る。当初のポジションの10番としてはキックの正確性にやや難があり、おもに12番で名を成した。’91年、当時の西サモアがワールドカップに現れ、いきなりウェールズを倒し、世界の多くはパシフィック・アイランダーの潜在力をようやく知る。そんな流れを加速させる存在でもあった。

 ’89年、19歳359日にして、カナダのブリティッシュ・コロンビア戦のオールブラックスにデビュー。翌年の対スコットランドでテストマッチ初出場を果たした。’98年8月までの代表歴にあって、プロ時代は最後の3シーズンのみだ。それまでラグビー界はアマチュアであった。もっと遅く生まれたら若くして財を築けたかもしれない。他方、金銭とは別の価値を深く知る人間の強さもある。現役を退くと’03年「建築現場の足場を築く」会社を設立、成功を収めた。その名も「リトル・スカァフォルディング(足場)・リミテッド」。少数精鋭で商業施設から住居までの現場をせっせとこなす。

 オークランド・ノースショア地区の出身クラブ、グレンフィールドは、1960年代の創立と歴史は浅く、ウォルターが初で唯一の栄えある「オールブラック」である。かつて、ここでコーチを務めてきたが、’15年、こう語っている。

「会社経営には多くの時間が費やされます。コーチングをもっと深めるには、それを最優先にしなくてはならない。これが私には難題なのです」(NZヘラルド)
 
 なんとまともな悩みだろうか。

 先にウルブズに敗れたチーフスの攻撃担当コーチ、タバイ・マットソンは、パシフィック・バーバリアンズの外側CTBとしてウェールズ戦に出場している。あのころはヤマハ発動機の一員だった。そういえばウォルター・リトルはスーパーラグビー43試合出場のほとんどをチーフスでプレーした。三洋時代に群馬で育てた愛する息子が愛する古巣をハミルトンで破ったのだ。断言できるが、観戦中の親はこういうケースでは、自分の在籍したチームではなく、絶対に息子の側を応援する。父リトルのスモールなガッツポーズがあったと推察する。

1998年、スーパー12(当時)チーフスでのプレー(撮影:Getty Images)
1998年のトライネーションズ(当時)。タックラーはジョン・イールズ、
右にティム・ホラン(ともに豪州代表/撮影:Getty Images)
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