無名校の星という、この国のスポーツファンに注目されやすい肩書きを持つ。もっとも当の本人は、その枠組みに寄り掛からない。もしトップチームの一員になったら、自分は無名校出身のトップ選手ではなく、ひとりのトップ選手として務めを果たさなくてはならない、と考える。
木津悠輔は2月19日、日本代表候補が集まるラグビーワールドカップトレーニングスコッド(RWCTS)キャンプに途中合流した。大分県の由布高時代は全国大会出場や年代別代表入りと無縁だったが、今季はかねてよりRWCTSの予備軍にあたるナショナル・デベロップメント・スコッド(NDS)に名を連ねていた。23歳のいま、今秋開幕のラグビーワールドカップ日本大会への出場権をつかみにゆく。
「確かに自分のなかでも無名校から上がってきたことにプライドを持っている部分もありましたが、行ったチームではそこに入ってからの(動きで)評価(される)。無名校から入ってそこにいるのがいいのではなく、そこでしっかりとやることが評価につながる」
剣道2段の腕前。受験する高校を選ぶ際、同じ中学から由布高へ進んでいた先輩から同高ラグビー部の存在を教えられた。興味を持った。
大分舞鶴高が全国大会の常連となるなか、木津がいた時代の由布高は秋の県大会で通算3勝。木津は高校でラグビーを辞めるつもりだった。
しかし結局、奈良の天理大で競技を続けることとなった。きっかけのひとつは、2年時の県大会2回戦を終えた時の心の動き。この時は大分舞鶴高に5-111で敗れていた。
「2年目の県予選で先輩たちが負けて引退した時、『来年のこの時期になると、自分のラグビーも終わってしまうのかな』と寂しくなる部分もあって。そこから先生に『大学でできませんか』とお願いして…。(もともと)消防士になりたいと思っていてあまり大学に行く気はなかったんですが、先生は口を酸っぱくして大学に行けと言われていました」
翻意して入った天理大は、関西大学Aリーグの強豪だった。ポジションをもともとのNO8からPRに変えた木津は、元ワールドの岡田明久コーチに「気持ちを前面に出せ」と発破をかけられながら低い姿勢でのスクラムを習得する。防御ではかねてからの頑健さを活かし、頭角を現した。
全国大学選手権で4強入りした3年目のオフには、若手育成グループのジュニア・ジャパンに入る。フィジーでの「ワールドラグビー パシフィック・チャレンジ 2017」で、環太平洋諸国の代表予備軍とぶつかり合った。
この時の仲間には、今年、木津より一足早くNDSからRWCTSキャンプへ引き上げられた堀越康介もいる。当時帝京大3年で現サントリーの堀越に、木津は「身体が強くて仕事をしっかりする3番(右PR)」と見られる。
2018年にはトヨタ自動車に加わり、国内最高峰のトップリーグで主力に定着。リーグ戦、順位決定トーナメント、カップ戦を含めて全15試合中12試合に出場(11試合先発)した。成功体験の積み重ねで自信をつけていった。
「大学でトップリーグから声がかかり始めて、自分がそういうふうな選手なのだと思いはじめて。ジュニア・ジャパンに初めて呼ばれ、サモア、トンガという外国の選手とやって、負けない部分もあって。(世界で)やっていきたいなと」
同時並行で抱いたのが、「無名校から入ってそこにいるのがいいのではなく、そこでしっかりとやることが評価につながる」という思いだった。自問自答の末に結論づけた。
「天理大がベスト4に入って取材が多くなり、そういうこと(出身校に関する質問)を聞かれるようになって、そう感じるようになりました」
今回のキャンプへの参加権は2月2日、岐阜メモリアル長良川競技場での「日仏ラグビーチャリティマッチ」で勝ち取ったと言えよう。
「トップリーグ選抜」の一員として、フランスのクレルモン・オーヴェルニュのランナーに何度も低く突き刺さった。身長178センチ、体重113キロというサイズは国際舞台では大柄と言えないが、向こうの巨漢とのぶつかり合いでも引けをとらなかった。
敵陣ゴール前でのシャープな突進も披露。トライラインを割れないと見るや体勢を変えて味方にボールをつなぐなど、丁寧な動作も光った。視察に来ていた日本代表の薫田真広強化委員長、藤井雄一郎同副委員長、長谷川慎スクラムコーチが揃って太鼓判を押した。
本人は決意を込める。
「もともと器用な方ではなく、天理大でも小手先のプレーではなく激しいプレーも求められていた。それが(現在の成長に)つながっているのかな、という感じがします。もっともっとインパクトあるプレーをしたいとは思います。アタックであればゲインをしたり、タックルでは低く入ったりと」
ここから目指すのは、無名校出身のワールドカップ戦士ではない。ひとりのワールドカップ戦士だ。