2007年9月12日。フランス南部の華やぎにあふれた街、そしてラグビーの街、トゥールーズ。夕暮れ時の乾いた日差しは熱く、緑の芝に差し込んでいた。
そんな景色を思い出したのは、久しぶりに箕内拓郎に会ったからだった。
1月31日。かの国のレジェンド、フレデリック・ミシャラクとともに、箕内は日本外国特派員協会の記者会見に招かれていた。
日野のFWコーチ。2003、2007年のワールドカップ(W杯)で日本代表の主将を担ったNO8は、つまり日本のレジェンドだ。
日本開催のW杯に臨む後輩たちに、こうエールを送った。
「僕らの頃とはベースが違う。エディーの厳しい練習で心身が鍛えられ、2015年大会で南アフリカに勝った。そのメンバーが多く残っている。あと7か月、ベースをさらに強固にできる時間がある」
箕内が桜のジャージーに身を包んだ時代。日本は手負いだった。
2007年の手負いっぷりといったらなかった。4年間で2度もヘッドコーチが代わり、ほうほうの体でW杯フランス大会にたどり着くと、今度はけが人続出。強化方針は右往左往どころか、芯を欠いていた。
「最後の20分間、世界と戦えるチームをつくりたい」。箕内は繰り返していた。
英国の名門オックスフォード大に留学、世界選抜にも選ばれ、当時、国際経験は飛び抜けていた。だから、どんなに踏ん張っても最後に息切れ、善戦止まりな日本の欠陥を冷静に見切っていた。
最後の20分間を戦い抜く。箕内はハードワークで仲間に示し続けた。
8強進出を真剣に考えられる、いまとは違う。現実的な目標は4大会ぶりの1勝。ターゲットが、あの9月12日のフィジー戦だった。
かつてなく日本は踏ん張った。後半10分を過ぎてから3トライを重ね、31-35の4点差。最後、ほぼ5分間にわたってボールを保持して攻め続け、ゴールラインは間近に迫った。
ジャポン、ジャポン、目の肥えた地元のファンが歌う。パチ、パチ、手拍子は波のよう。最後の20分間を戦い抜き、なお勝利には届かなかった。
「相手は分析通り。残念ですね」。淡々と箕内は振り返った。結果的にモールしか攻め手を持たなかった戦術は整理されずじまい。準備不足の限界を悟っているようにも映った。
それでも、この試合で体重を6キロ落としたLO大野均の献身は語り草だ。
コンビを組んだルーク・トンプソンは、まだ日本国籍を取ってトンプソンルークとなる前だったけれど、やっぱり関西弁がおちゃめな密集の大黒柱だった。
BKリーダーの大西将太郎は、パス一つ満足に回らない現実に苦悩しながら、日本が日本らしく攻める術を探求していた。
スタジアム全体を味方につけた最後の猛攻は、途中出場だった小野澤宏時のカウンターアタックから始まった。軽やか、かつ粘り腰の走りは先発落ちし、逆に鋭さを増していた。
それぞれに尊い姿だった。
少し話は飛ぶ。オールブラックスの話だ。
彼らが漆黒のジャージーに身を包む時、その背番号の先達の雄姿に決まって思いをはせるのだという。王国が紡いできた歴史の重みだ。先達に恥じないプレーをしようと、彼らは体を張る。
たとえ王国には及ばなくても、日本も歴史を紡いできた。嫌になるほど繰り返した惨敗、惜敗が下地となって、15年の躍進は生まれた。
9月20日。一生に一度という触れ込みのW杯日本大会が幕を開ける。一生に一度の桜のジャージーに身を包む者たちは、先達が味わってきた苦境、悔しさ、それら全てを背負って昇華させるべく、ピッチに立つ者たちだ。
その重み、プレッシャーを受け止めるだけの覚悟が求められる。覚悟が備わった時、先達の思いが桜に宿り、背中を押す。日本で開かれるW杯は、ジャパンにとって、そんなW杯であってほしい。
「フィジカルも経験も、昔といまとじゃ、全てが違いますよ」
箕内は優しくほほ笑んだ。
あと、7か月。
【筆者プロフィール】
中川文如(なかがわ ふみゆき)
朝日新聞記者。1975年生まれ。スクール☆ウォーズや雪の早明戦に憧れて高校でラグビー部に入ったが、あまりに下手すぎて大学では同好会へ。この7年間でBKすべてのポジションを経験した。
朝日新聞入社後は2007年ワールドカップの現地取材などを経て、2018年、ほぼ10年ぶりにラグビー担当に復帰。 ツイッター(@nakagawafumi)、ウェブサイト(https://www.asahi.com/sports/rugby/worldcup/)で発信中。好きな選手は元アイルランド代表のCTBブライアン・オドリスコル。間合いで相手を外すプレーがたまらなかった。