過去8大会のラグビーワールドカップに出場した25の国/地域にある、それぞれの最高峰がターゲットだ。
日本代表のジャージーを着て山へ。そしてラグビーボールを、頂上にグラウンディングしてまわっている。ラグビー登山家の長澤奏喜さんからリポートが届いた。
今回はニュージーランド編!
2018年3月28日。ニュージーランドに単身で渡り、スーパーラグビーのプロ選手になるとの夢を抱いた一人の若きラガーマンが他界した。
湯川帝道(ゆかわ・ていと)さん、21歳。父の背中を見て中学2年時からラグビーの門戸を叩き、高校時代は日本航空石川高校にて3年連続、花園に出場した将来を有望視されていた選手だった。
帝道さんのポジションはフッカー。身体は小さかったものの、誰も見ていない中、黙々と練習した。正確無比のスローイングと、低く刺さるタックルが武器だった。
1年生ながらベンチに入り、2年、3年時は不動のレギュラー。チームメイトからの信頼も厚く、花園ではモール最後尾からトライを決める職人気質のプレーヤーである。
「帝道は負けず嫌いな息子でした。けど、自分を花園、熊谷、国体に連れて行ってくれた親孝行の息子です。」
そう語ってくれたのは父・正人さん、52歳。高校時代の選手名鑑の尊敬する選手の欄に、「父親」と記載されていることを目に涙を溜めながら、笑顔で僕に話してくれた。今も東惑倶楽部でプレーしている男気溢れる現役のラガーマンである。
帝道さんは3年連続で花園に出場したこともあり、多くの大学からオファーがあった。しかし、より高いレベルでラグビーをやりたいとの思いからNZへ留学することを決めた。NZの語学学校に通いながら、現地のクライストチャーチハイスクール・オールドボーイズでラグビーを続けていた。
語学学校では国籍を問わずクラスの人気者だった。NZでの新生活に戸惑っていたクラスメートには気さくに声をかけ、また、快く高校の後輩たちを迎え入れた。歳も近く、現地での苦労もわかっているから頼りになる先輩だったという。
ラグビーは、膝の手術をしたばかりでリハビリからのスタートだったが、持ち前の負けん気と誰よりも練習熱心だったひたむきさが道を拓いた。帝道さんは、次第にチームメイトに認められるようになった。自分より大きいNZ人相手に低く刺さるタックルはコーチ陣たちの信頼を買い、異国の地で確実にステップアップしていた。
私生活でもラグビー中心の生活であり、日本のサンウルブズがNZのクライストチャーチへ試合でやって来たときは、スクール時代にお世話になった姫野和樹選手とも交流があった。また、ダン・カーターの最後のオールブラックスでの試合後にツーショット写真を撮ったことは現地新聞でニュースも取り上げられた。帝道さんのNZ生活は全てが順風満帆のように見えていた。
しかし、悲劇は起きた。
カンタベリー大学への進学も決まり、ますますNZでの活躍が期待されている最中、リンパ腫が判明したのだ。日本に戻って治療に専念することも考えたが、現地の医師がストップ。想像以上の早さでガンは体内を蝕み、2週間後、帝道さんは帰らぬ人となった。
NZの葬儀では150名もの人たちが帝道さんの死を悲しみ、悼んだ。葬儀の中で帝道さんの棺から離れない一人のNZ人がいた。それはライバルチームとの試合中に喧嘩となり、取っ組み合いをした相手だった。ノーサイド後、帝道さんと意気投合し、それからは親交を深めていった。NZへ挑戦した一人の若者は、ラグビーを介して、現地と深く溶け込み、多くの人間が信頼され、愛されいた。
帝道さんの故郷、愛知県にあるつぶて浦には帝道さんの石碑が建てられている。眼下には太平洋が広がり、その先はニュージーランドへ繋がっている。
「帝道は誰よりも2019年のラグビーW杯を楽しみにしていた。現地のNZの友人を引き連れて、一緒に観戦しようと計画を練っていた。帝道は応援できないが、息子の分も日本代表とオールブラックスを応援したい」と父親である正人さん。
帝道さんの背中を見て、日本航空石川高校のチームメートの中には、帝道さんと同じオールドボーイでプレーを検討している者もいるという。
NZの地で夢を抱いた一人の若き青年のパイオニア精神は、確実に同年代の若者たちへ引き繋がれている。
年齢こそ僕の方が上だが、帝道さんの遺志の影響を強く受けている一人である。というのも、今夏のNZ遠征中、僕は帝道さんがかつて住んでいたご自宅を利用させてもらっていたからだ。
NZの最高峰、マウントクック(3,724m)は僕が手がけている#World Try Projectの中で最高難易度の山である。登山をはじめて一年ちょっとの人間が、マウントクックに登攀(とうはん)できたのは「奇跡」と現地のガイドは言ってくれた。そして、オールブラックスの旗と共に山頂にトライした写真を見せると笑いを超えて、「あんな難しい山を…!?」と感動さえしてくれる。
この話は現地でもニュースになり、熱狂的なラグビーファンからエールがあった。NZのはるか彼方のアメリカのラグビースクールから、こんなコメントも頂いた。
「米国コロラド州の6歳から14歳までのほぼ100人の男の子と女の子があなたを応援しています!」
世界屈指のクライマーたちしか挑むことが許されないマウント・クック。その多くがマウントクックの垂直な壁に拒まれる中、経験不足が火を見るよりも明らかであった僕がマウント・クックにあたたかく迎え入れられたのは、天国から帝道さんが見守ってくれたからかもしれない。
【筆者紹介】長澤奏喜(ながさわ・そうき)
ラグビー登山家。過去8大会のラグビーワールドカップに出場した25の国/地域にある、それぞれの最高峰がターゲットだ。日本代表のジャージーを身にまとい、楕円球を抱えて山に登る。ラグビーボールを頂上にグラウンディングしてまわっている。1984年10月12日生まれ。愛知・明和高校→慶大(BYBクラブ)。IT関係企業で8年働く。青年海外協力隊でジンバブエに2年滞在したこともある。ポジションはPR/LO。「山登りにも、独自のルールを決めています。途中でボールを落としたらノックオン。10㍍下がり、スクラムの姿勢をとった後、また歩き出す」