慶大の丹治辰碩が、パスをした。
12月22日、東京・秩父宮ラグビー場。大学選手権準々決勝である。慶大は19-15と4点リードで、後半33分を迎えていた。
対する早大SOの岸岡智樹は、自陣深い位置からキック。慶大WTBの宮本瑛介がハーフ線付近左で捕球する。その右隣にいたのが、ファンタジスタで鳴らすFBの丹治だった。
丹治はこの日も好ランを連発。早大は、嫌な走者を前にしていたと言える。しかし丹治は、持っていた球をすぐに手放してしまう。
右に敷かれた攻撃ラインへ、球を回したのだ。しかも弾道はやや後方にそれ、早大防御網は攻防の境界線を一気に押し上げる。追加点の好機を逃したかもしれぬ慶大は、後半ロスタイムに19-20と逆転された。4強入りを逃した。
いったいなぜ、あの時、自ら走らなかったのか。試合後、悔しがる丹治が問いかけに応じた。
「ワセダが自分のことを見ていた。(両軍が)当たるポイントひとつ外にずらしたら(慶大が)もっとゲイン(突破)できると思ってアクセントを入れようとしたのですが、(パスの受け手との)コミュニケーションが取れていなくて、ああいうミスになっちゃいました」
この日、丹治が徹底マークされていたのは明らかだった。慶大がライン攻撃を仕掛ける際は、必ず丹治の目の前に防御網がせり出していた。接点と防御ラインの合間に少しだけ走路があったのだが、そちらへ丹治が走ると他のタックラーが待ってましたとばかりにカバーに回った。
慶大の背番号15は、常に「WANTED」の張り紙に顔をさらしていた。クライマックスシーンでの「アクセント」は、その立場で下された決断のひとつだった。
改めて丹治は、主軸としての矜持をにじませる。
「自分がマークされているなかで、いかにボールを動かすか。それを、特に去年から意識していました。パスを出す判断、自分で行く判断(の基準)は、自分のなかで常に持っていた。きょうも、うまくボールは動かせたと思います」
身長183センチ、体重89キロ。慶應高時代に選ばれた高校日本代表は故障で辞退し、内部進学後はアメリカンフットボール部へ入った。
その後は一時自由の身となったが、短期留学した英国でケンブリッジ大ラグビー部主体の連合軍へ加わる。自分とラグビーとの距離感を変えた結果、自由意志を尊重するラグビーのよさを再確認できた。帰国後の2016年4月、大学の体育会の門を叩いた。
間もなく主力のFBとして遇されたが、ラストイヤーは怪我に泣かされた。加盟する関東大学対抗戦Aでは明大との大一番を欠場し、選手権でもぶつかる早大戦ではベンチスタートだった。不完全燃焼に終わったとも見られ、悔しさは残るだろう。それでも口をつくのは、金沢篤ヘッドコーチへの感謝の念。取材者に学生生活を振り返る趣旨の質問をされ、こう明かすのだった。
「金沢さんには期待して使ってもらったこと、僕を受け入れてもらえたことに感謝しています。結局、勝てなかったですけど、プレーで(恩を)返したいとずっと思っていました。自分が日々、成長したい。それを行動の基準にしています。(卒業後は)厳しいこともあると思うんですけど、毎日、成長できるようにしていきたいです」
卒業後は、身分の保証された学生選手から、身分を自力で確立せねばならないプロ選手へと立場が変わる。これからは、いつでも悔いなき決断を下してゆきたい。