小原錫満(こはら・しみん)は溝に落ちていたビニール袋を拾い上げた。
メンバー外の部員にさりげなく手渡す。
「これが大事なんです」
東海大仰星のウイングは花園のアップグラウンドにいた。
決戦は数十分後に迫っていた。
監督だった土井崇司は部員たちにゴミ拾いの大切さを説いてきた。
「気づき。自分が関わる場所を見渡す。そして何をするか。それはラグビーにも生きるし、社会に出てからも君たちの役に立つ」
小原はその教えを守る。最大限の緊張にも我を忘れなかった。
しかし、全国8強戦には敗れる。
組み合わせ再抽選のあや。1月3日になった東福岡との事実上の決勝戦は12-43。勝者は5試合で298得点の大会記録を作り、V5を達成する。3年前のことだった。
小原の進路は決まっていた。
慶應義塾大学。
総合政策学部に自己推薦で合格する。
兄とは別の道を選んだ。
4歳上の政佑は仰星から東海大へ。同じウイングとしてトヨタ自動車に入社する。
「兄は寡黙です。その分、行動で示せます。尊敬しています」
珍しい「しみん」の名前には由来がある。
「次男にいいそうです。お寺に行って姓名判断でつけてもらったと聞いています」
小原は173センチとそう大きくない体ながら、スピードを軸に高校日本代表候補、そして7人制日本代表予備軍でもあるセブンズアカデミーにも呼ばれていた。
「文武両道を意識してきたつもりです」
机にも向かった。3歳から高校までは茨木ラグビースクールに籍を置きながら、中学時代は塾に通った。毎日2時間は勉強した。
仰星ラグビーから蹴球部入りは初めて。
「1年の時はめちゃくちゃ大変でした。今までトップのきつさでした」
住まいは横浜・日吉の蹴球部寮。朝は1時間のウエイトトレ。東急と相鉄を使い藤沢キャンパスへ。片道1時間30分。夕方まで講義を受け、同じ道を戻る。トレーニングは3時間弱。新入生の雑用もあった。
そこにケガが加わる。
入部前のメディカル・チェックで右肩の亜脱臼が見つかる。手術を受けた。
「それで半年は遅れました」
後半は足首のねん挫に悩まされる。
1年時の公式戦出場はなかった。
2年は太もも裏を左右ともに肉離れする。シーズンには足の甲を疲労骨折する。
3年は再び疲労骨折に見舞われた。
最終学年は左肩を脱臼する。
4年間でオペは4回。
「まっすぐ走っているだけで、体がおかしくなってきます」
小原は自嘲気味に笑った。
それでも、伝統の早慶戦には2年から3年連続で出場した。
日吉での練習は充実していた。
「僕は元々ディフェンスが苦手でした。でも今では得意プレーのひとつになっています」
タックル時の踏み込み足と肩は一緒に出すなど、具体的なコーチングを受けた。
仰星時代は「月に1回くらい」と話していたフルコンタクトの練習も、「週に1、2回」と大幅に増える。結果、格闘技的な部分を苦にしなくなった。
学生の本分も忘れない。
卒論は「ニュータウンの新しい公共の可能性」。実家のある大阪・吹田(すいた)には、全国の先駆けとなった千里ニュータウンがある。1962年に初入居が始まった街は、半世紀以上が経ち、高齢化が進む。その状況での再開発や住民と行政の関り方などを研究する。
卒業すればラグビーとは決別する。
「大きなケガをたくさんしてきました。続けるならパーソナルトレーナーについてもらわないといけません。それなら別の道でチャレンジすることを考えました」
外資系メーカーへの就職を決めている。
黒黄ジャージーに袖を通すのはもちろん、公式戦そのものを戦うのも、開催中の第55回大学選手権が最後になる。
「20年間の自分のラグビー人生が終わります。だから個人的にも、チームのためにも日本一を獲ることしか考えていません」
関東対抗戦3位扱いの慶應は12月16日、初戦で関西リーグ3位の京都産業大を43-25で下した。
小原は右ウイングで先発した。
試合は大阪長居のキンチョウスタジアム。故郷での選手権は2年の天理大戦以来。あの時は花園で準々決勝を戦ったが、24-29で敗れ去った。
2年後、白星を手にする。
「勝ててよかったです。楽しめました」
小原は白い歯を見せた。
次戦は準々決勝。12月22日の早慶戦だ。公式戦では今年2回目。リーグ戦は14-21と敗北した。雪辱を期する。
最大で残り3試合。負ければ終わる。
「ケイオーに来てよかったなあ、と強く思います。いい仲間にめぐまれ、刺激の多い、最高の4年間でした」
18歳の冬、よき行動と勝ち負けは別物だと知る。しかし、善行がなければ頂点はない。勝利の女神もほほ笑まない。
成長を示し、笑顔でラストを飾りたい。
それは、慶應にとっても19大会ぶり4回目の優勝になる。
(文:鎮 勝也)