ラグビーリパブリック

【野村周平コラム】まだ見ぬ主役のために

2018.10.18
釜石にて。後列左から5人目が福島氏
■地元の男性が「おれはW杯に反対だ」と言うのも見た。ここでの盛り上げは難しいな、と率直に思った。ただ、そこで視点を上げられるのが彼の強み。
 ラグビーワールドカップを日本で開催する意義の一つに、世界最大級のイベント運営を経験できる人材の養成があると思う。その点に目を向ければ、今回の大会組織委員会には、この先も活躍できる若き実力者たちが多くいる。取材するこちらがワクワクするくらいに。本コラムでは、その中の一人に焦点を当てたい。
 彼を初めて見かけたのは2015年の1月だった。当時は新国立競技場建設計画を巡る論争が盛んで、僕は今はもう取り壊された旧・日本青年館で行われた日本スポーツ振興センターの新年会を取材していた。会場に、切れ長の目をした青年がいた。彼の存在は知らなかったが、一目見て心のどこかに引っかかった。体の奥底で青い炎を燃やしているような、そんな静かなエネルギーが気になったのだと思う。
 その後、千葉であった20歳以下日本代表の合宿を訪れ、代表スタッフとして彼がいた時には驚いた。代表の指導に来ていたロブ・ペニー氏の通訳をしたり、チームの雑用をしたりしていた。初めてあいさつをしたら、1月に見かけた時よりずいぶん柔らかい印象を受けた。彼の名前は、福島弦といった。
 札幌南高校でスタンドオフだった彼は東大卒業後、外資系コンサルタントのマッキンゼーに勤め、3年前にラグビー界へ飛び込んできた。27歳での転身だった。
 U20代表監督をしていた中竹竜二さんのフェースブックに連絡したら、面識のない中竹さんは「すぐに来い」と言ってくれたそうだ。さっそく同行したジュニアジャパンのフィジー遠征には、いまW杯メンバーを目指す堀越康介(当時帝京大1年)らがいた。
 若きジャパンの選手たちに刺激を受けると、その春、生まれたばかりのスーパーラグビーチームの日本法人「ジャパンエスアール」の中心メンバーとなった。まだサンウルブズという名前もなかった時だ。W杯イングランド大会を控える代表選手たちと契約するため、何度も合宿地の宮崎に行っていた。なかなか交渉がうまくいかず、苦しい思いもしたはずだ。でも、彼は多くの人を巻き込んで、サンウルブズ誕生を推進した。ゼロからイチを生み出したのだ。2016年2月、秩父宮でサンウルブズの初陣を見たときは、胸がつまり、目が潤んだという。
 昨年1月から大会組織委員会に活躍の場を移した。まもなく、大きな反響をよんだ今年8月の岩手・釜石鵜住居復興スタジアムのこけら落としイベントに関わることになる。
 きっかけは「4年に1度じゃない。一生に1度だ」の大会公式キャッチコピーを決める時だ。事前に12の開催都市に申し合わせると、釜石市ラグビーW杯推進室の増田久士さんからメールがきた。「生きる、死ぬという言葉に被災地は敏感になっている。人の一生を、運営側が左右するようなフレーズはやめてくれないか」
 彼は悩んだ。何度も話し合って考えたコピーだ。確かに指摘はもっともだったし、一生に1度かどうかが定かでないことも分かっていた。この先、何度も日本でW杯を開く機会が訪れてほしいと思う。「一生に1度」は、運営側の心意気なんだ。そう説明した。増田さんは納得してくれた。でも、自分の心の中には何かモヤモヤしたものが残った。
 2017年11月、彼はとにかく釜石へ行ってみた。仕事ではなく、自腹で。車中、宮城県出身のラグビーライター、大友信彦さんの本を読んで、釜石のここまでの道のりを知り、鳥肌が立った。
 スタジアムの建設予定地をみると、土盛りが終わっただけで、まだ何もできていないように見えた。ここでW杯を行うのか。想像は膨らまなかった。近くにある旅館「宝来館」に立ち寄り、W杯招致を呼びかけてきたおかみさんに話を聞いた。市内では、案内してくれた増田さんに地元の男性が「おれはW杯に反対だ」と言うのも見た。冬が迫り、街に人は少なかった。釜石の盛り上げは難しいな、と率直に思った。
 ただ、そこで視点を上げられるのが彼の強みなのだろう。
 30年後、2019年大会が映画化されるとしたら、主役はきっと日本代表の活躍と釜石の盛り上がり、の二つになるはずだ。釜石の成功は、W杯の成功につながる。ならば、自分でやろう。本当に釜石に自分のサポートが必要かどうかは分からない。マッキンゼー時代を通じても、被災地の復興に関わったわけではなかった。それでも、こけら落としで満員の観客を見せることができたら、釜石市の人たちの夢が膨らみ、ここで運営にあたる仲間たちの視点をグッと上げられる。ビジョンを描き、人を巻きこみ、汗をかく。自分にしかできないことは必ずある、と思えた。
「世界を驚かそう」。そう仲間たちにプレゼンした。スポーツ庁や復興庁など各機関の間をつなぎ、こけら落としを国家プロジェクトと位置付けて、さまざまな関係者を巻き込みやすくした。歌手の平原綾香さんやEXILEの出演が決まると、「借り物のエンターテーメントではよくない」と、合唱やダンスで地元の子どもたちが関われるよう地元の学校とかけあった。主役は釜石だという信念があった。当日はVIPの駐車場への誘導から音響チェックまで走り回った。
「私は釜石が好きだ」で始まるキックオフ宣言をした釜石高2年の洞口留伊さんに白羽の矢を立てたのも彼だ。今年6月、釜石の学生に社会人生活を伝える講師として呼ばれた時、洞口さんから「私は釜石のラグビー親善大使です。来年のW杯でどんなおもてなしをやってほしいですか?」と質問された。その積極的な姿勢と、毅然としたまなざしが強く心に残った。沖縄慰霊の日に中学生の女の子が平和の詩を詠む映像を見て、点と点がつながった。彼女のスピーチは感動を呼んだ。起用は大当たりだった。
 6千枚のチケットは即日完売し、約6千万円をかけたこけら落としは国内外のメディアに取り上げられた。組織委が露出を広告換算すると21億円、W杯の開催都市発表時の22億円に迫る規模だった。「今回は多くの部分を自分で意思決定して、プロデュースできた。ラグビー界に入って一番、バッターボックスでフルスイングできた」というが、サンウルブズの時のようには泣けなかった。もっとできた、いう思いの方が強いという。
 福島弦は、決して居丈高にはならない。手柄を独り占めしない。そこにいる人たちに寄り添いながら、鳥の目で物事を俯瞰できる。「こけら落としの盛り上がりは9割5分が釜石の力です。僕は、そこにあるストーリーをしっかり伝えただけ」。そう静かに語る。
 ラグビー界だけでなく、スポーツ界の運営の多くは、その競技経験者たちの手によって担われている。競技の魅力や人脈を熟知していることは、もちろんいい面もあるが、一方で昨今不祥事が頻発する原因の一つに掲げられるように「村社会」の弊害も生む。W杯の自国開催は、彼のような若いプロフェッショナルな人材をラグビーの現場に取り込むきっかけを作った。W杯やオリンピック・パラリンピックを契機に、こうした人材がスポーツ界を流動するようになれば、運営のあり方もずいぶん変わるはずだ。
 彼が「W杯に関わりたい」とマッキンゼーを辞める時、後ろ向きな思いもないわけではなかったという。もちろん肩書がすべてではないが、東大―マッキンゼーとくれば、ビジネス界で力を発揮できる場所はいくらでもあった。「ルートから外れる」。一抹の不安はよぎった。ラグビー界にくれば、これまでのように高給も得られなくなる。
「でも、やってみたらどうってことはなかった。結局は自分の心の持ちようだけなんです」。彼は何かに挑戦する時、「何となくはじめてみること」を勧める。少しでも心の琴線に触れたものに、突き進んでみる。うまくいっていないものを、うまくいかせたい。世の中がよくなれば、それでいい。彼の原動力は、とてもシンプルだ。だからか、彼の周りには多くの人が集まる。
 本番まであと1年を切った。彼はラグビーが発展するための礎を築きたいという。地方と海外とラグビー。そんな組み合わせがはまれば、地方が元気になるような、ラグビーの本質的な価値を高められるような、今までと違う風を吹かせられるのではないか。福島弦の頭には、そんなアイデアがムクムクと膨らんでいる。
サンウルブズ立ち上げにも携わった福島氏。札幌南高校時代はSO

【筆者プロフィール】
野村周平(のむら・しゅうへい)
1980年生まれ、東京都出身。慶應義塾大学卒業後、朝日新聞入社。大阪スポーツ部、岡山総局、大阪スポーツ部、東京スポーツ部、東京社会部を経て、2018年1月より東京スポーツ部。ラグビーワールドカップ2011年大会、2015年大会、そして2016年リオ・オリンピックなどを取材。自身は中1時にラグビーを始め大学までプレー。ポジションはFL。
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