ラグビーリパブリック

できない気持ちがわかる指導者。 パナソニックヘッドコーチ 相馬朋和

2018.10.11
満面の笑みを浮かべるパナソニックの相馬朋和ヘッドコーチ。
京都のお好み焼き「吉野」の店主・吉野久子さん(右)と
スタッフ・吉川智仁さん(左)とともに。
 相馬朋和という名前が耳に残ったのは、ミレニアムのあとあたりだったか。
 ニュージーランドのクライストチャーチ。日本食レストラン「田中屋」である。
 マコトさんが大きな目をギョロつかせる。
「ソーマくんっていうのはいい男ですねえ」
 奈良出身のシェフは、パナソニックの現ヘッドコーチをそう評した。
 相馬は2001、2005年の2回、この地に半年間程度のラグビー留学をする。その間、味噌や醤油の渇望を田中屋で満たした。
「マコトさんは、山盛りのどんぶりめしの中に、こっそりトンカツなんかを埋めて、出してくれました。ありがたかったなあ」
 相馬は丸い目を細くする。今でも183センチ、130キロと小山のようなサイズ。本物の西郷隆盛はこんな感じだったか。
 相馬の社会人1年目は2000年。チームは三洋電機だった。2011年度、パナソニックになる。同時にクラブの管理部門は本社のある大阪に移る。現場レベルの最高責任者である部長の飯島均は単身赴任中だ。
 相馬の新人時代を振り返る。
「彼はニュージーランドに行って変わったんです。自主性が出てきました」
 始まりはトラブルからだった。
「僕は留学1期生で行ったのですが、着いたら宿がありませんでした」
 今でもパナソニックのアドバイザーをつとめるマイケル・クロノが手配をかけた
「マーティーさんという方の家でした。朝の5時に叩き起こされました」
 部屋はガレージ横の物置。ホスト・ファーザーはロードワークに連れ出す。曙光に輝く緑の中を1時間ほど2人で走った。
 毎朝のランは右プロップのルーティーンになる。速度は上がり、単独行になる。
「そこで初めて、トレーニングを前向きに、継続的にやる意味がわかりました。意識が『やらされる』から『やる』に変わったのです」
 頼る者がなく、言葉も文化も違う世界に放り込まれ覚醒する。南島の食堂でのひとコマは前向きな変化を受けて起こっている。
「クロノさんは恩人のひとりです。僕に最初に世界を見せてくれました」
 オールブラックスのスクラムコーチだったクロノは相馬をセッションに連れて行く。部外者はただひとり。2005年のことだった。
 それまで、試合から外されて、コーチのクロノにあたったこともあった。
「なんで俺が出られないんだ?!」
 恩師は激しく怒る。
「おまえなんか出せるか!」
 そして、続けた。
「質問がおかしい。試合に出られるかどうかではなく、どうすればもっといい選手になれるか、そう聞くべきじゃあないのか? その答えなら私はたくさん持っている」
「僕はそのあと、ぽろぽろ涙をこぼしながら、クロノさんと並んで座ってパソコンを見ました。いっぱいアドバイスを受けました」
 メンバー外だった試合の週には、練習ですべてのスクラムを押した。次の日、自分の名前がリザーブの中にあった。
 試合前には気合を入れられる。
 健闘を誓う握手だと思い、笑顔を浮かべたら、ほおを思いっきり張られた。
「自分でスイッチが入れられないのなら、オレが入れてやる」
 相馬は反射的に一歩前に出る。
「その顔だ、って抱きしめられました」
 翌週、同じように平手が飛んだ。教えを忘れた。また、戦いの前にニッコリする。
「それが、おまえのいいところでもあり、悪いところでもある」
 恩師は再びハグをしながら、つぶやいた。
 相馬は東京高入学後にラグビーを始める。高校日本代表として帝京大に進んだ。社会人では、ニュージーランドでの経験やクロノとの出会いなどを軸に本格化していく。
「5年くらいかかってようやくですね。それまでは体だけでラグビーをしていました」
 遅咲きの典型的な選手だった。
 日本代表の初キャップを得たのは28歳だった。2005年11月5日のスペイン戦。東京・秩父宮で44−29の勝利に貢献する。2年後の第6回ワールドカップでは、フィジー、ウエールズ、カナダの3試合に出場した。
「選ばれるなんて思ってもみませんでした。うれしかったこと以外覚えていません」
 2013年度、パナソニックとして初のトップリーグと日本選手権の2冠達成を花道に、現役を退いた。リーグ戦出場は126を数えた。
 引退即コーチになり5季目を迎えた。監督のロビー・ディーンズを補佐する。
 飯島は相馬の存在意義を説く。
「彼は若い頃、体の大きさを持てあましているように見えました。はっきり言えばイマイチだった。私は、指導者というのはできないということがわかる人間の方がいい、と思っています。その方が選手の悩みに答えやすい。優秀な選手に良いコーチが少ないのは、できないことが分からないからでしょう」
 悩んで、苦しんで、楕円球と向かい合った過去を飯島は評価している。
 相馬は飯島に対して感謝がある。
「僕は引退する5年くらい前から、『コーチになれ』と言われ続けてきました。むかついて、最後の1年は口もきかないし、あいさつもしませんでした。でも、そんな僕をイイジマさんは残してくれました」
 飯島は笑う。
「選手には現役を少しでも長く続けたいという理念があります。一方でタイミングというものもある。私はそれを伝えただけです」
 選手からすんなりとコーチに変われるかどうかは、その時のチームや会社など周囲の状況に大きく左右される。時機を逸すれば、物事が運ばないことを飯島は知っていた。
 反抗的な態度も気にしなかった。
「私も現役時代、気に入らないことがあるとすぐ顔に出るタイプでした。だから、彼は選手を続けることへの思いが強いんだなあ、という風にとっていました」
 森谷圭介は相馬に親近感を持っている。
 帝京大出身の3年目フルバックにとっては、直系の先輩でもある。
「しゃべりやすいです。なんでも聞けます。今はみんなで考えて、作ったことをソウマさんからロビーさんに上げてもらうんです」
 パナソニックは51人の部員全員がアタックやディフェンスや規律などのグループに属している。その制度は、昨季までは幹部のみだったが、主将2年目を迎えた布巻峻介の希望もあって、チーム全体に広がった。
 森谷はフッカーの堀江翔太らとともにアタックを考える。相馬は言う。
「やる人間が何をしたいか、というのが大切なんです。それを邪魔するのはもったいない。選手たちのやりたいことによって、必要なトレーニングは決まってきます」
 パナソニックの「プレーヤー・ファースト」は他の恵みももたらす。
「選手たちに主体性を持たせることによって、チームや試合に対して責任感が生まれます。『これは俺のチームだ』というオーナーシップを持たせる。それが大切なのです」
 歴史の積み重ねが伝統に変わり、チームとしての文化が生まれてゆく。
 パナソニックは、10月7日のリーグ戦5節終了段階で5連勝(勝ち点22)。ホワイトカンファレンスの首位に立つ。
 この5節までを含めた16シーズンのリーグ戦総成績は192戦154勝35敗3分。歴代トップの勝率80・2パーセントを誇る。サントリーより3つ少ない負け数もトップだ。
 リーグ戦優勝回数4はトップのサントリーと東芝を1差で追う。
「ロビーさんがよく言うんです。チーム・オブ・チャンピオンズではいけないよ。チャンピオン・チームにならないとね、と」
 Team of Championsは自己主張の強い集団であり、まとまりがない。Champion Teamは結束がある。グループ化によって、それはより強固になる。
 自分ができなかった経験を持つ相馬は、日本を代表する企業チームのサポートに、全身全霊を傾けていく。
(文:鎮 勝也)
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