ラグビーリパブリック

【田村一博コラム】19歳で知る、新たな道。

2018.09.14
1999年3月1日生まれ、19歳の篠原佑輔。愛称は父と同じペペ。
現在、早大ラグビー部には分析2人、レフリーひとりの福岡高校出身者がいる。
(撮影/松本かおり)
 もっともっとラグビーをやりたかった。
 だから福岡高校を卒業後、一浪までした。
 しかし、大学ラグビーで活躍する夢はあっけなく消えた。
 篠原佑輔。
 早稲田大学の文学部に学ぶ1年生だ。現在は分析担当の部員としてチームに所属している。
 今年の3月21日、入部説明会のときだった。用意していたメディカルチェック資料を見たクラブ側から、プレー許可は出せないと告げられた。
 高校3年時までなんの異変も感じなかったが、浪人中の1年間、毎日8時間近くも机に向かった負担からなのか、平山病の診断だった。
 平山病とは、首を前屈させることによって脊髄が圧迫され、手指に行く運動神経細胞にダメージを受けるものだ。篠原も浪人時代、指のしびれなどを感じていた。
「自分では問題なくプレーできるつもりでしたが、病院でそう診断されたときに、もしかしたら…という覚悟はありました。でも、実際にプレーヤーとしては入部できないと言われたときはボーッとしました」
 高校の先輩でもある3年生の瀬尾勝太に、「分析をやってみないか」と誘われた。
 家族と、お世話になった先輩に電話をした。
「父も覚悟していたのか、『そうか』と。(どうするかは)自分で決めなさい、と言われました。(先輩の)井上高志さんは、『残念だけどラグビーに関わっていってくれたら嬉しい』と」
 アタックの好きなHOとして自由にプレーしてきた。分析はそれまで興味のなかった分野だったけれど、せっかくのチャンスだ。全力を尽くそうと決めた。
 小学校4年時、玄海ジュニアラグビークラブでラグビーを始めた。
「先にクラブに入っていた友だちに、キミならリザーブになれるよ、と誘われたのがきっかけです」
 リザーブの意味を両親に尋ねたら苦笑しつつ教えてくれた。
 複雑な気分だったけれど、とりあえず楕円球を追い始めた。
 丸々と太っていた少年は、走るのが苦手だった。
「だからラグビーは、プレーするのが楽しいというより、友だちに会いにいく感じでした」
 父・光宏さんは現役時代はトップリーガーとして活躍した巨漢PR。現在、宗像サニックスでマネージャーを務めている。
 ランニングラグビーの得意な同チームを応援していたから、自分もいつの間にか走れるフロントローになった。
 ボールキャリーに長け、カットインからフラットなパスを受けて前に出る。そんなプレーでチームに貢献してきた。
 上京して約半年。選手生活との突然の別れで始まった日々は、慣れない東京でのひとり暮し、新たな分野への挑戦と、慌ただしく過ぎた。
 そんな生活の途中、先輩や同期の仲間のプレーする姿を見ていると「ラグビーやりたいな、って思うときはあります」。
 ときどき、ワセダクラブの練習に参加させてもらっている。
 うずうずしながらも、分析の仕事の面白さも見つけた。
「ジュニアチームの映像を撮ったりしています。それらを見ていると、一人ひとりの変化などが、すごく見えてくるんです。例えば、同期の大崎(哲徳)は高校時代(國學院久我山)までCTBだったのですが、いまでは、もうLOにしか見えません。ラインアウトでのジャンプ。スクラムの押し。以前とはまったく違う。FLの小川瑞樹も、ますますタックルするようになった」
 分析の先輩たちの姿を見て思う。
「将来的には、自分から『こういう分析結果があります』と提案していけるようになれたら、と思います。先輩(鈴木麟太郎/3年)が考えたものの中に、起き上がりスタッツという、寝て、起き上がる時間を記録したものがあるのですが、それを見ると、やっぱりFLの幸重さん(天/3年)とか柴田さん(徹/3年)とか凄いんです」
 チームは、起き上がりスタッツを意識するようになってディフェンスが改善された。
 自身のプレーで勝利をつかむことはできなくなったけれど、チームの力になることはできる。
 一度、上京した父と西武新宿線の野方駅近くにあるモツ焼きの名店『秋元屋』に食事に行った。
 まだ未成年だからソフトドリンクを飲みながら、ぎゅうぎゅう詰めの店内で大きな体を丸める父と、モツ焼きを食べた。
 光宏さんは長く、宗像サニックスを支える裏方のプロだ。息子に、仲間を支えることの喜びを伝えたのかもしれない。
 チームには自分と同じように、プレーヤーをサポートする人たちがたくさんいることを知った。
「荷物を担当する人たちは、試合の1週間前から動いています。選手たちがいい状態でプレーできるように、多くのスタッフが考えている。準備の大切さというものを学んでいるところです」
 人への気づかい、思いやり。「高校時代より、その部分に変化が出てきたような」とあどけない表情を見せた。
「4年間のうちにチームが日本一になったとき、『ここで勝った』というものがあり、そこに少しでも関われていたら嬉しいですね」
 その日が来たら、モツ焼き屋で乾杯だ。
【筆者プロフィール】
田村一博(たむら・かずひろ)
1964年10月21日生まれ。1989年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務=4年、週刊ベースボール編集部勤務=4年を経て、1997年からラグビーマガジン編集長。
Exit mobile version