原田隆司(はらだ・たかし)さん。日本ラグビー協会での肩書きは、「技術委員会 審判部門 ハイパフォーマンスグループ マネージャー」だ。
「『ハイパフォーマンスグループ』という、レフリー集団のマネージャーをやっています。マッチオフィシャルと呼ばれる人たち、全員を管理する仕事です」
いわばレフリー界の管理職だが、「ラグビーだけの人生です」と言って陽気に笑う、あったかい人柄だ。
40歳までは、レフリーを続けながら小学校で教師をしていた。
シーズン外はレフリングのガイドライン作りなど、「種々雑多」な仕事をこなしている。
シーズンに入ると、時間との戦いは激化。レフリングに関わるひとびともシーズンを戦うのだ。
「シーズン中になると、全部の試合をレビューして、全部のレフリングをチェックします。日曜日の晩から、月曜日の晩までに、8試合を見終わるようにします。試合のレビューをする人もいますが、ぼくもすることでダブルチェックをかける形です」
トップリーグチームからの質問に対応するのも、原田さんの仕事のひとつ。だから、全試合のチェックを欠かすことはできない。
自身は25年間笛を吹き、数々の国際大会を経験した。トップリーグ元年(2003)のピッチにも立っていた。
2015年度のトップリーグをもって、25年のキャリアに終止符を打ったが、レフリーとしての生活には未練がない。
後進の育成というミッションがある。
「レフリーはやり切りました。いまはこっちの仕事が楽しいですね。若い子たちを見て、良いレフリーを作るということがファースト・プライオリティー。彼らの試合を見て、彼らのコーチングを考えることのほうが楽しいです」
大阪の名門・北野高校でラグビーと出会った。
ポジションはスタンドオフとフルバック。前大阪市長で弁護士の橋下徹氏は、高校3年生のときの1年生部員だ。
大阪教育大学でもラグビー部に所属。
関西ラグビー協会でアルバイトをするほど、ラグビーがたまらなく好きだった。ずっとラグビーと関わりたいと思っていた。
「うちの高校(北野高)の顧問だった田中伸明先生が、元トップレフリーだったこともあります。先輩方にもレフリーが多かったので、レフリーに触れる機会が多かったです。ラグビーに関わり続けたいということもありました」
自然とレフリーを志した。
大学時代には4か月間、NZクライストチャーチのニュー・ブライトン・クラブへ、当時珍しかったラグビー留学を敢行。
大学卒業後、大阪市内の小学校に赴任したが、小学校教師としてはやや規格外のフロンティア精神を持つ原田さんは、やがてプロの道を選択する。
「バランスが学校の先生が『1』、ラグビーが『9』くらいになってきたので、40歳になったときに学校を辞めて、プロレフリーになりました。“食いぶち”が先にきたのではなくて、辞めたときには収入はゼロでした」
教師からプロレフリーへ。
通常の運動、筋トレのほか、パーソナルトレーナーによる週2回のフィットネス練習も行い、試合に臨んでいた。
現職の依頼もあって、現役を引退。48歳でピッチを後にした。
しかし舞台が変わっただけで、レフリングのプロとしては、現役の真っ只中だ。日々の勉強が欠かせない。
「むかしレフリーをやっていても、むかしと今のラグビーは全然違います。逆に言うと、勉強し続けないといけない。勉強した人だけが残っていける。学び続けることによって、第一線にいることができる。ラグビーは勉強したぶんだけ還ってくるスポーツだと思うんです」
ラグビーは「どんどん進化するスポーツ」だから、世界の潮流も追いかけなければならない。
「いろんな情報を総合的に持っている人間が、正しいことができるのだと思います」
そんな信念があるから、いまも学び続け、動き続けている。
信念を支えるのは、ラグビーへの一途な想いだ。
だからさらりとこう断言する。現役レフリー時代、しんどかったことは一度もない――
「僕はしんどいと思ったことはないんですよ。ぜんぶ楽しかったです。Bチームの試合でも、Cチームの試合でも、ピッチの選手が楽しんで、納得できるような試合を目指していました。(思い出の試合は)全部ですね」
8月31日にトップリーグが開幕すれば、原田さんはより多忙になるのだろう。しかし原田さんは今日も笑顔に違いない。今日も、大好きなラグビーに携わっているのだから。
(文・撮影/多羅正崇)