2017ブレディスローカップ第2戦でトライを挙げたウィル・ゲニア(Photo: Getty Images)
タスマン海をはさんだ永遠のライバル、オーストラリアとニュージーランドのラグビー代表が争う『ブレディスローカップ』について、ウィル・ゲニアは「個人的な視点からしか言えないが、私にとってはそれが頂点だと言わなければならない」と語った。
1931年、ニュージーランド総督だったブレディスロー卿が両国の良きライバル関係を記念し、定期戦に優勝杯を寄贈したことで戦い自体が「ブレディスローカップ」と呼ばれるようになった。長い歴史を持つクラシックだ。
オーストラリア代表“ワラビーズ”のスクラムハーフであるゲニアは、ニュージーランド代表“オールブラックス”を倒すことの難しさを知っている。
「ワールドカップは明らかに上にあるが、ブレディスローカップは世界最高のチームと3試合戦って2勝しなければトロフィーを獲得することはできない。私はワールドカップで優勝したことがないので、ブレディスローカップを制する方が難しいとは言わないが、私にとっては最優先の試合だ。彼ら(ニュージーランド代表)はワールドカップ連覇を果たし、この15〜20年間、世界最高のチームである。倒すのは信じられないほど困難であり、もし我々がそれをできれば、信じられないほど特別なものになるだろう」
そのトロフィーは15年連続でニュージーランドに輝いている。オーストラリア代表が手にしたのは2002年が最後。ゲニアが14歳の時だ。
だが当時のゲニア少年は、ブレディスローカップなどほとんど関心がなかったに違いない。彼にとってメインスポーツはクリケットだったのだから。
ブレディスローカップも関係する今年の南半球4か国対抗戦(ザ・ラグビーチャンピオンシップ 2018)へ向け、8月5日に発表されたワラビーズのスコッド36選手のうち、12人はオーストラリア以外の国で生まれているが、ゲニアもそのひとりで、パプアニューギニア出身だ。父は同国の政治家で、ウィル・ゲニア少年が12歳だった2000年にオーストラリアのブリスベンに移り住んだ。当時憧れたのは、クリケットのオーストラリア代表主将、スティーブ・ウォーだった。
しかし、ブリスベン・ボーイズカレッジで学んだゲニアは、17歳の頃からラグビーに集中するようになる。才能を伸ばし、高校、U19、U20世代でナショナルチームに選ばれ、2009年のブレディスローカップ第1戦で念願のワラビーズデビューを果たした。これまで獲得した90キャップのうち、22キャップはオールブラックス戦(ワールドカップ:2011年大会準決勝と2015年大会決勝を含む。ブレディスローカップは20試合)で得たもの。でも、ゲニア自身がライバル対決で勝利に貢献したのはたった3試合しかない。ゲニアにとっての初キャップとなった2009年7月18日以来、ワラビーズはオールブラックスと29試合戦い、4勝23敗2分と大きく負け越している。
今年30歳になったベテランスクラムハーフは、3年ぶりにスーパーラグビーでプレーした。フランスのスタッド・フランセで2季ヨーロッパラグビーを経験したあと帰国し、自身が中心となって2011年に初優勝を遂げた古巣のレッズではなく、レベルズに加入。前年最下位だったレベルズは、ピッチの指揮官であるゲニアなどの活躍でチーム史上初のプレーオフ進出を争い、ゲニアが負傷で途中離脱しなければ大きな歴史を刻んでいたかもしれない。
6月16日のアイルランド代表戦で骨折した右腕は治り、8月18日にシドニーでおこなわれるブレディスローカップの第1戦で、ゲニアはゴールドジャージーの9番をつけて先発する。
3戦で2勝しなければブレディスローカップを奪還することはできない。ワラビーズにとっては、地元で先勝し、一週間後に敵地オークランドのイーデンパークでおこなわれる第2戦でオールブラックスにプレッシャーをかけたいところ。そして、もし1勝1敗となれば、10月27日に神奈川・日産スタジアムで開催される第3戦が歴史あるトロフィーをかけた決定戦となる。