写真は、オーストラリアン・フットボール『AFL』のメルボルンFCとシドニー・スワンズの激突。オーストラリア南部では高い人気を博す(Getty Images)
■戦時中にスポーツが置かれた状況は、美術と似ている。
「変奏曲」の豊富さは、ラグビーの1つの特質である。13人制のラグビーリーグに始まり、五輪種目になった7人制、東南アジアで人気の10人制…。その他にも数々の変形版がある。本流の15人制も、時代に合わせてルールをさまざまに変えてきた。よりプレーして楽しく、見ておもしろいものにしようという柔軟性はこの競技の美徳とも言える。
バリエーションの1つに、こういうルールのものがある。
タックル後のモール、ラックはなし。審判が空中にボールを投げて試合を再開する。エリアによっては、アメリカンフットボールのように前にパスしたり、ボールを持っていない選手にタックルしても良い。
ルールを簡略化し、他競技の要素を盛り込んだこの形式は「闘球」と呼ばれた。ラグビーの漢字表記であるこの言葉が、本来はこの種目のことだけを指していたことは、あまり知られていない。
闘球の誕生は1942年。茨城県にあった旧日本軍の土浦海軍航空隊でのことだった。14歳以上の男子を航空機の搭乗員に育てる「予科練」の訓練科目として考案された。
同航空隊に在籍した下平忠彦氏による『海の若鷲「予科練」の徹底研究』に経緯が詳しく記されている。新種目開発の理由は主に2つ。短い訓練日数でも競技に習熟できるよう、ルールを簡略化する。そしてこちらの方が重要なのだが、ラグビーという競技を「攻撃精神や犠牲的精神などの涵養にまで効果をひろげる」狙いがあったという。
その表れが、得点方法の変更である。闘球ではインゴールの中央にトライすれば3点、両サイドなら1点と定められた。通常のラグビーの場合、中央に守備側が固まっていれば大外にボールを展開してトライを狙う。ペナルティゴールという遠距離からの得点方法もある。
「海軍の攻撃精神は、こうした方法を邪道と考えたのである。爆弾を抱えて敵艦に体当たりする特攻隊の姿によく似ている」と下平氏は記す。海軍の勇敢さの象徴として誕生した闘球は、やがて予科練の全生徒が日常的に行う訓練科目になった。
ラグビーの旧日本軍との深い結びつきは、闘球の存在にとどまらない。京都大学の高嶋航教授(東洋史)の労作、『軍隊とスポーツの近代』が両者の関係を詳らかにしている。なお、以下の記述のうち、日本のラグビーの歴史的な経緯は同書に多くを負っている。
京都大学の高嶋航教授(東洋史)
「最初は軍がラグビーを利用した」と高嶋教授は指摘する。具体的な施策は、1925年という早い段階でも見られた。海軍の少佐が編さんした体育訓練の指導書の中で、ラグビーは「壮快極マリナイ最モ男性的ナ運動」と定義された。軍人を育てるのに有効という、うたい文句のもと、ラグビーは将校を育てる海軍機関学校や、海軍兵学校の正規科目として導入されることになった。
他競技にはないほどの厚遇を受けていたラグビーだったが、太平洋戦争が始まり、軍部のスポーツを見る目がさらに厳しくなると、方向性の逆転が生じた。「戦争中はラグビーが軍に頼って生き延びるという関係に変わった」と高嶋教授は話す。
1943年、政府の外郭団体「大日本体育会」に吸収されていた日本ラグビー蹴球協会の幹部を、陸軍の将校が招集。「ラグビー協会は戦争に協力していると思えない。もしラグビーの存続を考えるなら、協会の事業を再検討すべし」という意向を伝えられた。続いて大日本体育会のトップからも呼び出しが掛かる。「ラグビーを邦語に変えよ」
戦中、敵性語とされた英語由来のスポーツ用語が日本語に「修正」された事実は良く知られる。ストライク=「よし」、アウト=「退け」などの例で、ラグビーにもその流れが押し寄せた。
存続の危機に瀕したラグビー蹴球協会は、以下の方針を定めた。「決戦下真に日本的な球技を創造するといつた建前から」競技名やルールを再検討する。そして、「団体的戦闘要素の錬成、滅私挺身、果断即決などラグビーの持つ長所をあくまで生かす」。軍や戦争へのさらなる協力姿勢を確認したと言えようか。
新しい名称として決まったのは「戦闘球」。戦争そのままという名前だが、大日本体育会から異論が出たため、既に海軍で使われていた「闘球」の名を拝借することで落ち着いた。英国ラグビー校由来の名前は消え、軍発祥の言葉が日本での正式な競技名となった。
協会が軍の意向を受け入れたことは、ラグビーが「生き延びる」という点では多少の効果があったのかもしれない。この直後、文部省が出した体育指導についての要綱では、ラグビー以外の球技の実施が暗黙裏に否定された。三高(現京大)や浦和高校などでは他の運動部が休止に追い込まれる中、闘球だけがその後も数か月から1年間、存続を許された。
『日比野弘の日本ラグビー全史』では、終戦前、最後のラグビーの試合は44年12月の成蹊高校と成城高校の一戦としている。当時の情勢からするとこれでもかなりギリギリまで競技を続けていたと言えるが、海軍機関学校で最後の闘球の試合が行われたのは45年5月27日の海軍記念日。米軍侵攻による沖縄戦が終盤に差しかかろうという時期だった。
「闘球は優遇されていた分、ほかの競技以上に軍への協力姿勢を明確にする必要があった」とも高嶋教授は説明している。「改名」の直後から、闘球部の選手が率先して銃剣術の訓練を受けていることが新聞などで盛んに報じられた。「闘球がそれだけ注目を集めていたと思われるし、ロールモデルの役割を果たすことを期待されていた証拠であろう」と高嶋教授は言う。
同じ年、半年繰り上げで卒業した慶応大学の闘球部員8人が軍への入隊を志願している。志願すれば、徴兵の場合より本人の希望が通りやすい事情があったとはいえ、軍との接近がラガーマンを本来より早めに戦場へ送り出してしまった可能性もある。
歴史的に見れば、軍に近づいたスポーツは日本のラグビーだけではない。そもそも、19世紀半ばから発展した近代スポーツは、同時期にできた帝国主義と不可分の存在だった。例えば、ラグビー校など英国のパブリックスクールでスポーツが重視されたのも、軍隊に必要な規律や、植民地経営に必要な統率力を若者に植えつけることが大きな目的だった。学生の方は無心に楕円球を追っていただけだろうが。
第1次世界大戦後、英国でこの潮流はさらに強まった。『軍隊とスポーツの近代』にはこうある。「陸軍体育訓練学校の教官はボクシングとラグビーを兵士にふさわしいスポーツと考えていた。(中略)大戦中、民間のラグビー界から多数の志願兵を輩出したことから、ラグビーは男らしさやリーダーシップと強く結びつけられるようになった」。米国でも野球が軍との協力関係を背景に、特権的な立場を認められてきた。
しかし、こうした他国の例と比べても、「ラグビーと日本軍の結びつきの度合いは強かった」と高嶋教授は話す。軍の各機関で正規のカリキュラムに組み込まれたことなどが理由である。
「ラグビー以外のスポーツも同じように生き延びようとしていた。競技をしている選手のことを考えると当然のことでもあり、単に『戦争協力』と言ってしまうのは良くない」とも高嶋教授は説く。
自分たちが青春を賭け、多くを学んだ競技が世に広まってほしいという当時の人の願いは、多くが純粋なものだっただろう。現代のスポーツ関係者と共通する思いだとも考えられる。ただ戦時中は、その情熱から来る国家への接近がときに弊害も生んだ。
かつてのラグビー界やスポーツ界が悪だったと切り捨てるようなことはできない。ただ、当時どうすれば良かったのか。今後、似たような状況に置かれた時にどうするべきなのか。考え続けることは必須と思われる。
戦時中にスポーツが置かれた状況は、美術と似ている。物資統制の中で画材を入手するため、多くの著名な画家が戦意高揚を目的とした絵画を描いた。その美術界では近年、戦争画の展覧会開催や関連書の出版が相次ぐ。歴史を見つめ直そうという機運は徐々に高まっているように見える。
スポーツ界はどうか。戦中のあり方が真剣に議論される機会はむしろ減っているような。理由は学問分野としての「スポーツ史学」の退潮である。近年、有力大学でもこの分野の講座が廃止、縮小されている。文科省などが助成する研究費も、五輪のメダル獲得に役立ちそうな「実学」を優遇する一方、今年度の制度改定でスポーツ史学に対しては支給されにくくなった。研究費の助成制度に詳しい関係者はそう指摘する。
戦中とは比べものにならないが、2020年東京五輪の開催決定を受け、スポーツと国との距離は再び縮まっている。スポーツの側には財政支援などのメリットがある一方、思わぬ横やりや「有力者」への忖度から、選手のためにならない結果を招く恐れはないだろうか。
かつて戦争との関係が最も深かったラグビー界は来年、五輪より先にワールドカップという大イベントを迎える。スポーツ界の先頭に立ち、歴史を振り返って将来のあり方について考えを深める、絶好の機会にも思える。
【筆者プロフィール】
谷口 誠(たにぐち・まこと)
日本経済新聞編集局運動部記者。1978年(昭和53年)生まれ。滋賀県出身。膳所高→京大。大学卒業後、日本経済新聞社へ。東京都庁や警察、東日本大震災などの取材を経て現部署。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科で社会人修士課程修了。ラグビーワールドカップは2015年大会など2大会を取材。運動部ではラグビー以外に野球、サッカー、バスケットボールなどの現場を知る。高校、大学でラグビーに打ち込む。ポジションはFL。