かつて日本代表、早大などを率いた故 大西鐵之祐さん(東伏見のグラウンドで)
■身体接触を伴う競技だからこそ、瞬時の「闘争の倫理」を磨きやすい一面もあるのではないか
ある競技の問題を他競技と安易に比較するのは、慎まなければいけない。ただ、ラグビーやスポーツの本質に関わる点で、あまり指摘されていないと思われるものがあるから、あえて触れたい。
日本大学のアメリカンフットボール部員が悪質なタックルで関西学院大学の選手を負傷させた問題。日大の内田正人前監督が語った言葉は、選手の告白との食い違いが多すぎて、その全てを信じる人は少ないだろう。ただ、今後解明が進むだろう事実関係とは別に、記者会見の中で違和感を抱かせる出来事があった。
問題の核心は、故意に相手を負傷させるという出来事がなぜ起こったのか。言い換えれば、フェアプレーの精神に反した理由なのに、2時間の会見中に内田前監督から「フェア」の言葉が出たのは、1度きりだったと記憶している。それもチームが「昨年、フェアプレー賞を受賞した」と説明したとき。代わりに多用したのが「ルール」という文言だった。
「ルールの中で一生懸命やりなさいと言っている」「ルールの中という言い方で指導している」「ルールの中が基本で、ルールから逸脱するということは考えていない」
こういう事態の後である。明らかな反則になったのは想定外だったが、危険なプレーを故意に犯してもルールの中なら許される。そういう本音の表出ともとられかねない。
さらに、もっと根本的な疑問も浮かぶ。それは、スポーツにおける「フェア」の理念を指導陣が十分に理解していなかったのでは、という疑念である。
思い出したのが、ラグビー日本代表や早大の監督を務めた故・大西鐵之祐さんの言葉だった。スポーツとその精神を考え抜いた哲人は、主著『闘争の倫理』でフェアをこう定義している。
「自分の良心に照らして絶対に恥じない行動、それを誇りとするような共通の精神」「自分の生き方がきたないかきれいかという考え方」。そのうえで、フェアとは単にルールを守る行為ではないと指摘している。
ルールブックにはその競技をプレーするうえで守るべき項目が書いてあるだけ。行間や文脈の解釈は選手に委ねられる部分が大きい。その「余白」にどんな振る舞いをするかが、フェアとアンフェアを分ける。
2016年、大西さんの生誕100周年を記念するシンポジウムで、早大学院の元学院長、伴一憲さんが生前の教えを紹介された。
「試合中、この汚い手をやれば勝てるが、あくまでもフェアに戦うべきだという心の葛藤を瞬時に解消し、正しい行動ができる選手を育てることがスポーツの価値ではないか」。1つの具体例も提示された。「(地面にある)ボールを蹴る時に相手が(頭から)セービングをしてきたら、そっと力を抜く」。
ボールを蹴る動きの中でたまたま頭に足が当たっても、反則には問われぬかもしれない。相手が負傷交代でもすれば、勝敗にはプラスに働くだろう。
しかし、相手の頭をもろに蹴ってしまったら、脳に深刻な損傷を与えかねない。最悪の場合は命にも関わる。ラグビー選手なら初心者でない限り、その危険性は分かる。そこで足を振り抜くのか。
『闘争の倫理』にはこうも書かれている。「ちょっと待て、それはきたないことだ、と二律背反の心の葛藤を自分でコントロールできること、これがスポーツの最高の教育的価値ではないか」。フェアな行為を瞬間的に選び取る力は、スポーツによってこそ養われるという指摘である。
一方で、フェアを判定する難しさにも触れている。「価値基準は何だと言われると、正義に対すると同じで、中々決定できない。スポーツを行っている者のフェアかアンフェアかの実感というものじゃないか」
流動的な基準だからこそ、選手はそのありかに目をこらし続ける必要がある。そして、コーチ、特に学生チームを導く人間ならなおさら、選手よりも厳しくフェアを問い続けなければいけない。
ここからは大西さんの哲学から離れるが、フェアプレーを追求する時、ラグビーやアメフトには難しい要素があると感じる。競技の特性上、激しい身体接触が頻繁に起こる。タックルや突進、転倒を繰り返し、疲労や興奮で頭が鈍くなれば、フェアとアンフェアを区切る一線を見極めるのはさらに難しくなる。
狭いエリアで個人が争う格闘技と違い、広いピッチで十数人がプレーするという特性もある。ボールから遠く離れた場所や、密集の中ではカメラの目すら届かないことも多い。偶発的に、あるいは故意に相手を傷つけても構わないという誘惑は、すぐ隣にある。
その誘惑を退け、常にフェアであり続けるのは簡単ではない。しかし、身体接触を伴う競技だからこそ、逆に大西さんのいう瞬時の「闘争の倫理」を磨きやすい一面もあるのではないか。
コンタクトスポーツには、「痛み」や「恐怖」という負の要素もある。自分や身近な仲間が脳振とうや骨折などの大けがを負った後、タックルに入るのが怖くなったという経験を持つ人は多いだろう。しかし、その負の要素は、ある種の感受性を磨くこともある。
明治大学、新日鉄釜石で活躍し、現・九州協会会長の森重隆さんが以前、話していた。「タックルは痛いし、はじめから好きな奴はいない。それを乗り越え、痛みを我慢することで仲間の信頼につながる」。信頼という感情が生まれるのは、仲間の痛みを共感できるからこそだろう。
同時に、ラグビーやアメフトのようなスポーツをプレーすることで、対戦相手の痛みへの共感力も高まるのではないか。頭の近くのボールを思いきり蹴れば、相手はどうなるのか。それを自分の痛みや恐怖として感じ取れた時、「それはフェアではない」と瞬時に判断できる。思いやりや想像力が、体にブレーキを掛ける。
日大のアメフトの件に戻ると、最も大きな痛みを受けたのはタックルをした選手かもしれない。相手を故意に傷つけたという自責の念だけでなく、全国中継で顔を大写しにされ、謝罪した。犯した罪より過分に重い社会的な制裁のような気がする。スパイクを脱ぐという決断を誰も責めることはできないが、無二の痛みを知った人だからこそ、グラウンドの上で「闘争の倫理」を周りに伝えてほしいとも思う。
【筆者プロフィール】
谷口 誠(たにぐち・まこと)
日本経済新聞編集局運動部記者。1978年(昭和53年)生まれ。滋賀県出身。膳所高→京大。大学卒業後、日本経済新聞社へ。東京都庁や警察、東日本大震災などの取材を経て現部署。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科で社会人修士課程修了。ラグビーワールドカップは2015年大会など2大会を取材。運動部ではラグビー以外に野球、サッカー、バスケットボールなどの現場を知る。高校、大学でラグビーに打ち込む。ポジションはFL。