奥野義房先生の追悼試合前に黙とうをする
島本高(左の黒黄色ジャージー)と茨木高のOB選手たち。
先生が逝って、もう10年か…。
なんかやりたいなあ。試合なんかどやろ。
そやな、ええなあ。
ウチだけやなくて、先生にご縁のあった人らにも来てもらおか。
3月25日、大阪にある茨木高校のグラウンドには、白っぽい日差しが降り注ぐ。近くの桜並木は薄桃色に染まりかけていた。
その中で黙とうが始まる。
甦るのは「先生」、奥野義房である。
保健・体育教員であり、ラグビー指導者だった奥野は、2008年3月27日、がんのため世を去った。50歳だった。
この日、奥野に教わった2つの府立高校、島本、茨木のOB約80人が集まり、20分ゲーム2本やタッチフットを行った。
島本は黒に黄色一本、茨木は濃紺のファースト・ジャージーを着る。
没後10年での追悼試合は珍しい。関西では、大阪工大高(現常翔学園)を強豪にした荒川博司の例があるくらいだろう。荒川と違い、奥野は在任10年で異動対象になる公立校勤務。極めて厚い人望を物語る。
茨木OBの西村康平には大きな思い出がある。卒業間際、停学になった。受験ストレスが爆発した同級生に暴力を振るわれた。
「振り回した手で200発くらい殴られました。それで、数発殴り返しました。僕は正当防衛だと思っていた。事実、先生たちも『仕方ないよなあ』っていう感じでした」
ところが、恩師は違った。
「なぜ、耐えなかった。殴るにしてもどうしてグーや? グーには憎しみがこもっているんや。返すんやったらパーでいかんかい。おまえが社会に出たら、これが地位をなくすことにもつながるんやぞ」
こぶしだったのか、手のひらだったのか。
「すーっと自分の中に入ってきました。ああ、考えが甘かったなあ、って思いました」
西村は筑波大に進学する。同期はNECのLO廣澤拓、クボタのLO今野達朗。現在は、保健・体育教員として布施工科に勤務する。ラグビー部監督、そして、CTBでプレーする大阪教員団では主将を任されている。
島本時代の教え子、SH林義一、SO長井達哉のHB団も顔を出した。
奥野は彼らが3年時の1996年、監督としてチームを全国舞台へ導いた。76回大会は1回戦で関商工を24−22と降す。2回戦で4強入りする東福岡に18−24で敗れた。
林は大阪体育大を経て消防士になり、長井は京都産業大からセコムに入った。
昔を思い出す林には笑みが広がる。
「めちゃくちゃ楽しかったですよ。先生は僕らを自由にさせてくれました」
長井は振り返る。
「ピラミッドラインをやりたいです、ってお願いしたら、資料を集めてきて、これでやれ、って言ってくれました」
SHが真横の広い位置に立ったSOにパスアウトし、そこにバックスの選手が一斉に入って相手をかく乱させるラインアタックは当時の高校日本代表が使っていた。奥野は「無理だ」と一蹴せず、高校生の意志を尊重した。
その指導が6年ぶり4回目の全国大会出場に結びつく。この年を最後に、府下の公立校の花園出場はない。
この日のレフェリーは岡本吉隆だった。淀川工(現淀川工科)出身。両校のOBではないが、長井とは大学の同期だ。
岡本は高校教員を志望したが、採用試験に8年受からず、挫折しそうになる。そして、奥野に相談する。
「もう他の仕事を探そうかと思っています」
岡本の父・博雄は日本体育大で奥野の先輩だった。淀川工の監督として5回の花園出場経験がある。ところが指導者としても偉大な先輩の息子に容赦なかった。
「おう、探せ、探せ」
岡本はその時の心の動きを覚えている。
「まあそう言わんとかんばれよ、と励ましてくれると思ったら、突き放されました。でも、それがありがたかった。発奮できました。自分でやらなあかん、と思いました」
最終的に岡本は府高校の保健・体育教員として採用される。現在は北摂つばさに勤務。ラグビー部顧問もつとめている。
茨木で監督2年目に入る四斗辺幸大(しとべ・ゆきひろ)は、12人の3年生の追い出し試合をこの追悼試合の直前にもってきた。
「現役にOBとのつながりを感じてほしかったのです」
27歳の元SOは大阪教育大出身。宗像サニックスでプレー経験がある社会人教員だ。奥野との接点はない。ただ、その偉大さは伝わる。
「すごいですね。これだけ人が集まるのですから」
府下有数の進学校でもある茨木の創部は1945年。長い部史を築く一員となる中で、奥野に接したOBたちは、前日24日、アルコールを交えた追悼式をした。60人が集合した。
「ありがたいことに、部に対してカンパを20万円ほどいただきました」
その浄財は奥野が捻出したと言っていい。
奥野は天理高出身。3年時、54回大会にWTBとして出場する。1回戦で関商工に16−29で敗れる。大学では選手権9連覇を果たす帝京大監督の岩出雅之と同期だった。
島本には1989年4月赴任。大学の先輩でもあり、1974年の学校創立と同時に赴任し、創部した尾野嵩の下でコーチをする。
翌1990年の70回大会にSO廣瀬佳司を擁して出場。3回戦で相模台工(現神奈川総合産業)に6−9と惜敗した。その後、廣瀬は日本代表キャップ40を得て、トヨタ自動車の監督にもなる。
茨木には1999年4月に移る。
2004年には大阪公立伝統校大会の発起人になった。同じように部員不足にあえぐ北野、天王寺、四条畷などに共闘を呼びかける。デフラグビー日本代表の強化にも携わった。
西村は言う。
「僕も含めて、奥野先生に教わった茨木のOBで6人が教員になりました。この数は先生の影響力を示していると思います」
追悼試合には、島本から、重なっていない1期生のOBや試合参加こそなかったもののヤマハ発動機に所属する仲谷聖史も姿を見せた。日本代表キャップ4を持つPRの3年時に、奥野は転任している。
桜は散るからこそ、人の心に永遠に残る。
奥野は人間を作った。そして、彼らの内面に今でも生き続けている。
みごとな一生だったと言えよう。
(文:鎮 勝也)
試合後に両校の関係者はカメラにおさまった。