2017年度シーズンの慶大ラグビー部の選手たち。(撮影/松本かおり)
淡いピンクの桜とともに、新入生たちが大学の門をくぐる。ラグビーを続けるなら、部歌や校歌を覚える時期だ。
上級生のリードで、そらで歌えるように練習に励む。そして、試合の健闘をたたえ合うアフター・マッチ・ファンクションなどで声をそろえる。
前人未踏、大学選手権9連覇の帝京の新人集合日は3月10日と聞いた。
ハミルトン・ボーイズ・ハイを卒業した小村健太もその1人である。秀麗な顔立ちが人を引きつける18歳は、高校3年間をニュージーランドで過ごした。
祖父は、伏見工高(現京都工学院)を作り上げた山口良治。小村も、そして日本体育を出た山口も部歌(校歌)に触れる。
酔うと、口ずさむ部歌がある。
塾蹴球部(ラグビー部)。
私は慶應義塾とはなんの関係もない。
しかし、この歌が好きである。
『白凱々(はくがいがい)の雪に居て
球蹴れば銀塊(ぎんかい)飛ぶ
黒黄(こっこう)の猛きしるしには
清浄(せいじょう)の誉れ高し
勇めよ我が友よ
いざ行けいざ行けよ
正義の旗なびき
自治の剣輝く
ツララ慶應慶應
ツラララツラララ
ツララ慶應慶應
ツラララ』
1899年(明治32)創部。慶應は日本ラグビーのルーツ校だ。その部歌のすばらしさを人づてに聞いたのは学生時代だった。同志社のマネジャーだった野村陽子からである。
「同志社チアーやカレッジソングも、もちろんいいけれど、私は慶應の部歌もいいなあって思う。定期戦のアフター・マッチ・ファンクションで初めて聞いて感動したの。キャプテンソロが長くて格好よかったわ」
聡明で美しい女子は話した。
主将の独唱は「勇めよ我が友よ」まで。以降は参加者全員で歌う。
年1回行われる2校のアンニュアル・マッチ(定期戦)はこの国最長。昨年、節目の100回を迎えた。
野村は結婚してアメリカに渡った。その後、3人の子供に恵まれる。言葉も文化も違う星条旗の下での生活には、部歌が根付くラグビーの経験が生きたはずだ。
これまで、たくさんの塾蹴球部OBからライブで部歌を聞かせてもらった。
福澤達雄、田中真一、立石郁雄、福本正幸、野澤武史、野村周平…。
東京の私学・桐朋高出身だった青井博也から、20代の頃、レクチャーを受ける。
「桐朋女子の子が調べたら、この部歌は世界の名曲と同じ韻(いん)を踏んでることがわかったんだ。だからいい曲なんだよ」
韻=音(サウンド)。
120年近い歴史の深みがある。
青井家は博也の父・達也(日本代表キャップ6)、息子・郁也とともに、その三代すべてが黒黄ジャージーに袖を通した。
桐朋女子高と男子校である桐朋高は併設校の関係にある。女子高にある音楽科の生徒の多くは桐朋学園に上がる。名前は「女子」だが、男子も在籍する。国立の東京藝術と並び、大学として日本の音楽を支える。
桐朋学園は世界的な指揮者・小澤征爾を輩出した。小澤は成城学園時代、ラグビーに興じている。
10年ほど前、野村周平と吉本安輝子の結婚パーティーに招待してもらった。
東京・六本木のレストランだった。宴の後半、出席した慶應関係者がお祝いの思いを込め、部歌を披露した。リードしたのは、その代の主将・水江文人だった。
私は野村のお母上の隣に立っていた。
おめでたい席なのに、関西人の習性で、ついしょうもない冗談が口をつく。
「おかあさん、僕は今日、この歌を聞きに来たんです。申し訳ありませんけど、結婚式のためじゃあないんです」
お母上は間髪を入れずに返す。
「私もよ」
部歌は偉大である。
お母上は言った。
「お嫁にきてくださった安輝子さんは、字の通り、安らかに輝くのよ」
よろこびは言葉に出る。満面の笑みはOBたちの歌声の影響もあったのだろう。
今、2人の間には一女が育っている。
部歌、あるいは校歌は、世間に幅広く知られていようが、なかろうが、それらはすべて等しく素晴らしい。
そして、大切なものである。
なんとなれば、それらは一生涯、その人のかたわらにあり続けるのだから…。
(文:鎮 勝也)