ラグビーリパブリック

新たな道、走る。LO秋田太朗(宗像サニックス)、大型ダンプに乗る。

2018.03.17
愛称ジャンボ。100キロあった体重は93キロになった。
 長い間おつかれさん。
 シーズン終了後の個人面談。部屋に入ると、監督にそう言われた。
「ありがとうございました。自然に、そんな言葉が出ました」
 宗像サニックスブルースのLOとして活躍してきた秋田太朗が2017-2018年シーズンを最後にブーツを脱いだ。
 プロ契約を結んでいた。
 すでに新しい生活が始まっている。
 38歳までプレーした。ここ数年は毎シーズン、「1年1年が勝負」の気持ちが強まっていた。
「同じポジションの後輩、若手たちも力を伸ばしてきていました。そろそろかな、と思っていたので、自然と感謝の言葉が出たのだと思います」
 ラストシーズンも、最後の最後まで試合に出るつもりで最善の準備を尽くした自負がある。だからこそ構想から外れたと聞いたとき、潔く身を引く決意ができた。
 面談からの帰りの道すがら、秋田は自動車教習所へ電話をかけた。10トントラックの運転が可能になる、大型自動車免許を取得するためだ。
 中学2年生の長女を筆頭に、4人の子どもたちを育てる父親だ。家族を養っていかなければならない。
「だから引退が決まって、感傷に浸ったり、少しの間ゆっくり…という思いはありませんでした。次に進まないといけない。すぐにやれることを、と」
 運送業に就く知人の話を聞いていたから決断は早かった。
 即行動。やがて免許を取得し、助手席に経験者に座ってもらっての見習い期間も始まった。
「3月中には、購入したトラックも届きます。2年ぐらいは地獄を見ることになるでしょうね(笑)。軌道にのったら台数を増やしていきたい」
 将来の青写真を、そう描く。
 福岡・香椎工業高校でラグビーを始めた。県大会の前。地区大会でいつも負けていた。
 福岡工業大学に進学した。2年上に冨岡鉄平(元東芝ブレイブルーパス)がいた。大学3年時は全国大学選手権に出場。
 卒業後はホンダへ。社員として鈴鹿に6年住んだ。
 宗像サニックスに加わったのは2008年からだ。印刷会社を営む父が体調を崩した。2007年度シーズンを最後にホンダを辞めて実家に戻った。
 しかし、やがて父は復調。そして息子に、「まだラグビーを続けてほしい」と伝えた。
 ブルースで再出発することに決めた。
 ただ理由はどうであれ、それは移籍とみなされたからリリースレター(移籍承諾書)は出されなかった。2008年度シーズンは公式戦への出場が許されなかった。
 その1年の過ごし方で、秋田の新天地での評価は決まった。
「チームのプラスになるように。それだけを考えた1年だった」と振り返るそのシーズンは、Aチームの対戦相手になり切った。
 試合に出られないから手や気を抜くようなら信頼なんか得られない。常に激しさをアピールした。自分がどんな人間なのか知ってもらうため、人一倍ハードに動き続けた。
 結果、翌年は春から全試合に出場。自分が信頼されたことを感じる。
 秋も活躍。プロ集団の中に入り、以前の自分の一生懸命さが「ぬるかった」と知った。
 プロだから思う存分ラグビーに打ち込めた一方で、ラグビーを仕事にしていたから、それを失えば生活を支えるものもなくなる。
 しかし秋田は、人生に後悔はない。
 自営業の父の姿を幼い頃から見ていた。自分で道を切り拓き、自身の生きる世界を作り上げる。そんなDNAも受け継がれているから、大きな組織の中のひとつの歯車になるのは向いていなかった。
 だから、ホンダの社員のままでいたなら…とは思わない。プロとして宗像サニックスでプレーすることになったのも、38歳でセカンドキャリアを始めることになったのも、自分の選んだ道であり、運命と納得できる。
「(サニックスで)神戸製鋼に勝った試合は、よくおぼえています(2008年は試合せず。2010年は先発出場)。特にあの頃はよく走るチームで、FWとしては大変だったけど楽しかった」
 他と同じを好まない。人と違ったスタイルで勝つ。
 チームのアイデンティティーが自分のそれと一致していたのも、38歳まで走り続けられた理由のひとつだった。
 大柄ながらリロードははやく、ブレイクダウンでのプレーを連続してやれるLOだった男は、新しい仕事にはやく慣れ、必死に働き、将来は事業を大きくしていけたら、と考えている。
 先日、ホンダ時代の同年代の仲間と連絡をとり、現在のサラリーを聞いてみた。
「とりあえず、はやくそこに到達できるようにしたいな、と。漠然としているより、具体的な目標があったほうがいいかな、と思って」
 将来の設計図が思うような形になり、好きなゴルフをやれるようになったり、事業が軌道にのったら叶えたい願いがある。
「サニックスのチームをサポートする、ひとつの力になれたら、と。ジャージーに、自分の会社の名前を入れられたら嬉しいですね」
 生涯最高のタックルは、高校1年生のデビュー戦。ルールもわからない中、「とにかく先頭でボールを持っている相手に突っ込め」の言葉を信じ、無我夢中で飛び込んだときに生まれた。
 あのときから22年。
「思い返してみると、相当はやかった」。
 ダンプの運転はゆっくりとやる。
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