■何かあったら一つになれるのが関西のチームの文化。
ラグマガ編集部では、大学やトップリーグはそれぞれ担当制だ。異動になった前担当者から、関西大学リーグを引き継いだのは数年前。それまで大学ラグビーは関東と関西という地域差しか意識していなかったが、各チームに接してみると、関西リーグには独特の魅力があった。
何より各チームの色がはっきりしている。天理大ならBKの独特の仕掛け、京産大なら堅固なスクラム。同志社の才に恵まれた選手が見せる煌めき。ここ一発の近大の爆発力。昨今、天理大のスクラムが強くなったりと多少のモデルチェンジはあれど、伝統はしっかり継承されている。そのスタイルのぶつかりあいに、見ていて引き込まれる。前任者がシーズンになると、朝5時起きで新幹線で取材に通ったのも頷けた。
今季は、9月の新陣容説明会を京都の下鴨神社で行い、8チームの主将(天理大は副将)がラグビーの神様である雑太社(さわたしゃ)の前で揃って写真撮影。さらに、「月刊!スピリッツ」(小学館)に2月まで連載されていたラグビー漫画「ブルタックル」の作者である飛松良輔さんに各キャプテンのイラストを依頼してグッズを作ったりと、様々な方法でPRに努めている。一体となって関西の大学シーンを盛り上げようという気概が伝わってくる。
先日、昨年11月の試合で頸椎を痛めリハビリ中の京産大・中川将弥(まさや)主将の元に、関西大学Aリーグの全チームのカラーで折られた千羽鶴が贈られた。代表して届けたのは、同志社大の野中翔平主将だ。
二人は中学選抜時代からの知り合い。高校時代も御所実、東海大仰星で主将を務めていたことで、以前から親しい仲だった。
野中主将は中川主将がケガを負った直後から、病院に通った。リハビリが始まってからもちょくちょく病室を訪れ、時にはリハビリに付き添うこともある。
「自分が会いたいから、行ってるだけ。そう思わせるマサヤの人柄じゃないですか。あいつは僕がいると、情けない顔見せられへんから、リハビリ頑張りよるんです(笑)」
近大の喜連航平主将も以前から、「何かできないか」と方法を模索していた。
「どんな形にすればいいんだろう、と思案してたところに、野中が“千羽鶴を考えてる”というので、“それ、ええな”と。LINEでつながって話がまとまりました」(喜連主将)
野中主将が中川主将の父親の承諾を得て、各チームのキャプテンに連絡(京産大は、仰星の同期だった河野翼選手に依頼)。「キャプテンとして最後の仕事を」と依頼状を送り、各監督の了解も得た。折鶴の色はそれぞれのチームカラーにしてほしいとリクエスト。各チームともネットで探して手に入れた。
野中主将も、喜連主将も鶴を折った。4年生が卒部していて集まれなかったチームは3年生以下で折った。同志社と京産大が200羽、他の6チームが百羽ずつ。2月末までに送ってもらい、それを野中主将が糸でつないで千羽鶴に仕上げた。
「僕、女子力高いんで(笑)」
千羽鶴は3月初旬に届けられ、本人はSNSで「一生の宝! ほんまにラグビーやっててよかった」と綴った。
「たまたま僕が言い出しただけで、やらなかったら、誰かがやったと思いますよ」(野中主将)
喜連主将は言う。
「大学だけじゃない。下のグレードから、何かあったら一つになれるのが関西のチームの文化としてある」
長く取材してきて、ラグビーはその土地の色を濃く映すと感じる。中川主将も「関東を意識して、まとまるところはあります」と言う。ラグビーというスポーツの特質に、関西の気質がよりマッチするのかもしれない。
12月に病室を訪れた際、中川主将は言った。
「必ず、もう一度ラグビー出来るようになります。そのときはまた取材に来てください」
その言葉を野中主将に伝えると、こう返ってきた。
「あいつは本当に強い奴。僕だったら口に出来ない。でもそのために皆で鶴を折ったんですから、出来なかったら取り上げます(笑)」
その日まで、これからきっと山あり、谷ありの日々だろう。でもきっと、ラグビーで培った仲間が支えてくれる。
天理大、京産大、立命大、関西学大、関西大、同志社大、近大、摂南大。彼らは関西大学Aリーグという一つの「チーム」でもあった。その一体感がゲームの魅力となって、見る人を惹きつけるのかもしれない。
間もなく4月。大学ラグビーの4年間を経て、巣立っていくすべての選手に、幸あれ。
昨年9月、8チームの代表が揃い、下鴨神社にある「第一蹴の地」の前で記念撮影
今季のポスター。中央が「ブルタックル」主人公・釜之(かまの)うしお。単行本第3巻は5月発売
【筆者プロフィール】
森本優子(もりもと・ゆうこ)
岐阜県高山市生まれ。83年、株式会社ベースボール・マガジン社入社。以来、ラグビーマガジン編集部で、定期誌『ラグビーマガジン』のほか、『ラグビークリニック』など多くの刊行物を編む。共著に『ラグビーに乾杯!』(画・くじらいいくこ)。ワールドカップ取材は1991年の第2回大会から。