本人が撮影した写真。いま、「撮り鉄」。(撮影/ピョン吉)
平昌での冬季オリンピックがもうすぐ終わる。
パラリンピックが3月8日に始まる。
今回の平昌パラリンピックには、女子ラグビーのトップレベルでプレーしていた本堂杏実(ほんどう・あんみ)さんが出場する。
彼女のコーチは以前、「杏実の体は全部ラグビーで作られたものですが、すべてがスキーに向いているんですよ」と言った。
脚力が強いのでスキーに向いているのだそうだ。足も速く、その瞬発力がターンするときに活きる。
楽しみだ。
大学時代以来の仲間に、パラリンピックに参加した友人がいる。
アイススレッジホッケーの日本代表としてソルトレイク大会(2002年)に向かった。
出場と書かないのは、試合には出られなかったからだ。
「行くぞ」
大会中、コーチには何度かそう言われたが、監督の口からは、最後まで自分の名が出ることはなかった。
すべての試合が終わった後、日本から応援に来ていた同期のラグビー仲間と、黙って抱き合った。スタンドで過ごした世界の祭典だった。
愛称はピョン吉。
4年に一度、この時期が来るとブルーになる。ソルトレイクの記憶がよみがえるからだ。
多くの人に応援してもらったのに期待に応えられなかった。
ピョン吉がアイススレッジホッケーを始めたのは、ラグビーに代わる、熱中できるものを探していたからだ。
7歳のときに大阪ラグビースクールで楕円球と出会い、都立豊多摩高校でもラグビー部に所属した。早大に進学して学生クラブでプレーを続け、HOとして活躍。卒業後も会社のラグビー部でグラウンドを駆けた。
だけど、そんな日々は29歳の初夏に突然終わった。
1997年7月5日。しこたま飲んだ。
その日は、会社ラグビー部の春シーズン納会の夜だった。
連日飲み会が続いていたこともあるが、その日はどろどろに酔った。ビール。焼酎。カラオケにも行った。
そして電車に乗ったら…次の記憶は、救急車の中のぼんやりした風景。どうやら、駅の線路で寝ていたらしい。両足の上を電車が走った。
痛かった記憶はない。右は太もも、左は甲で切断した。
手術。リハビリ。そして職場復帰。
ピョン吉は、多くの人のサポートと自身の気持ちの強さでふたたび人生を楽しみ始めた。そして氷上の格闘技と出会う。ラグビーに代わるものを探すためにPCのキーボードを叩き、東京アイスバーンズのホームページを見た。練習見学。そして、ソリに試乗させてもらったときの感覚が気持ち良くて決めた。
「風を感じたんです。そういうの久々でした。で、いいな、って」
正直、応援者の立場から言わせてもらうと、ピョン吉がパラリンピックの舞台で躍動できたかどうかは、どっちでもいい。
よくやった。
事故に遭ったのは気の毒だ。でも、痛くなくてよかった。
そして、30歳を過ぎて熱中できるものに出会えて幸せだ。
本人にとっても、パラリンピック開会式でスティービー・ワンダーの歌声を聴けたのはいい想い出。
本人が4年に一度ブルーに…というのに、こちらは、ピョン吉のこれらのストーリーをいろんなときに思い出す。
人が事故にあった経緯を気に入っているとは失礼な話だが、あの夜、飲み過ぎた理由が好きだ。
29歳の頃、会社ラグビー部のキャプテンだった。後輩には強豪大学の体育会から入社した者もいた。指導者もいない学生クラブの出身者が、名門チーム出身者を束ねる。あの春シーズン、肩に力の入る日々を過ごしていた。
わかる。
そんな中で、ひと区切りつく日がその夜だったから、飲み過ぎた。
なんだか、その理由が好きなんだなあ。
人はプライドとコンプレックスの上に生きている。
酒場の先輩の言葉をいつも思い出す。
ピョン吉はいま、時間を見つけては車で遠方に出掛け、電車と風景の写真を撮っている。
電車でケガをしたのに、よく撮れるな?
そこのところの記憶がないからだと思う、とのことだった。
【筆者プロフィール】
田村一博(たむら・かずひろ)
1964年10月21日生まれ。1989年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務=4年、週刊ベースボール編集部勤務=4年を経て、1997年からラグビーマガジン編集長。