関西協会・坂田好弘会長からピンバッジを贈られる川尻竜太郎レフリー。
(撮影/松本かおり)
最後の最後にそう思えたのだから幸せな人生だった。
「レフリーというより、ラグビーをやってよかったな。そう思いました」
1月6日におこなわれた全国地区対抗大学大会の決勝、名古屋学院大学×札幌大学の試合でレフリーを務めた川尻竜太郎さんが、その日の80分を最後にホイッスルを置いた。「プレーヤーのため」をいつも胸に、グラウンドに立ってきた。15年のレフリー人生だった。
最後の担当試合を終えた後、両チームの表彰が終わると同レフリーにも花束が贈られた。プレゼンターは関西ラグビー協会の坂田好弘会長(日本ラグビー協会副会長)。同会長は花束に加え、自分のジャケットの襟に付けていたピンバッジを外し、それもラストゲームを終えた41歳に手渡した。
2012年にワールドラグビー(当時IRB)の『Hall of Fame』(ラグビー殿堂)入りしている坂田会長。ピンバッジは、その『Hall of Fame』仕様のものだ。
「いい決勝戦でした。その思いもあったし、ゲームを担当したレフリーの方が、長くラグビーに貢献してくださったということで、何か記念になるものを、と。あの場で思い付きました」(同会長)
川尻レフリーは貴重なバッジにも驚いたが、坂田会長のあたたかさに触れ、冒頭のような思いが込み上げた。
都立石神井高校から青山学院大学に進学し、SOやバックスリーでプレーしていた。レフリーの世界に入ったのは、大学3年時に母校の夏合宿を訪れたのがきっかけだった。当時、同高校ラグビー部の顧問をしていた梅原秀紀先生のすすめを受けて、やり甲斐のある道と出会った。
大学卒業後、2003年がスタートの年(C級)。2005年にB級に。2009年にA2級昇格で日本協会公認レフリーとなり、2014年から3シーズンはA1級レフリーとして活躍した。
41歳でリタイアするのは仕事が多忙となり、週末にレフリー活動日を確保するのが難しくなったからだ。青山学院大学の職員として、入試広報職に就いている。2018年問題と呼ばれる少子化加速により、進学系イベントを多くおこなわなければならない。それは受験生が対象となるため土日が中心となるから、以前のようにグラウンドへ向かえなくなっていた。
「そういう状況ですから、シーズンを通して(トップレベルのレフリーとしての)責任を果たせなくなりました。それが辞める理由です」
また、現代のトップレベルのラグビーは、ゲーム後にもやらなければいけないことがたくさんある。カテゴリーがプロに近くなればなるほど、試合で起こった問題点や疑問点の抽出などをクオリティー高く、スピーディーにやることを要求される。それに対応するのも厳しい日常があった。
2019年ワールドカップ後の日本ラグビーの発展を後輩たちに託す。
「華やかな祭典がおこなわれた後こそ、日本ラグビーの真価が問われると思います。そのときにおこなわれる(より質の高い)ラグビーの環境に負けない強いレフリーがたくさん出てきてくれたらいいですね」
川尻レフリーは担当試合の前、どこのグラウンドに行っても、ピッチをぐるっと歩いて回ることをルーティンとしてきた。一周する間に、芝の状態を確かめたり、ピッチ上に何か落ちていないかを見てみたり。
「以前、秩父宮ラグビー場のコーナーポストの位置が違ったことがありました。補助の学生がやってくれたりするので、そういうことが起きたようです。秩父宮でもそういうことがある。だから、どんなところでも自分で歩き、チェックすることにしたんです」
その途中、グラウンドキーパーの方たちと話して気づいたことが、試合をコントロールする中で役に立った経験もある。
ともにマッチオフィシャルを務める仲間(第3アシスタントレフリーまで含めた4人)に「プレーヤーのためにやりましょう」と声をかけてから試合に臨む。それが、ルーティンだった。試合前のドレスチェック時には、いつも両チームに「みなさんのために4人で担当します」と伝える。それも最後の試合まで続けた。
プレーヤーファースト。
それが何より大切となれたのは、実は、自身が怪我を負った苦しみを経て、復帰した後のこと。レフリー人生を過ごしはじめて、何年もしてからのことだった。
このスポーツをやってよかった、と穏やかにホイッスルを置けたのも、それに気づけたからかもしれない。