松竹隆三さん、57歳。「学校でも知らない人はいません」と息子・龍之介くん
花園開幕前夜、久しぶりにコタツでひと晩寝た。
長崎・諫早。となりでスヤスヤ寝ているのは松竹隆三さん。同地で知らぬ人はいないラグビーマンの家にお世話になった。
松竹さんが経営するラグビー酒場『クラブハウス 140』(ワン・フォー・オール)が12月28日を最後に閉店する。そんな情報が仲間からのメールや、読者の編集部宛の葉書でも届いた。最後に足を運んでおきたかった。
12月上旬、本人からも夜中に電話があった。こちらが出られず、折り返してもつながらないままだった。そうこうしているうちに閉店の噂が耳に入る。あらためて電話をすると「なんで知っとっと?」。松竹さんらしかった。
『140』の名付け親は原進さん(故人)だ。ラグビー日本代表で、のちにプロレスラー、阿修羅原として活躍した世界的プロップ(1976年、世界選抜に選出される)が考えた。
ふたりは諫早農業高校ラグビー部の先輩、後輩にあたる。松竹さんが同校のスタンドオフとしてプレーしていた頃、OBの原さんがグラウンドにやって来たのが出会いだった。
21年前、『140』は現在とは別の場所でオープンした。その頃、プロレスラー人生を終えて地元に戻っていた原さんと松竹さんは連日つるんでいた。営んでいたライブハウス『エルビス』が火事に遭ったものの、その時の補償金でしばらく気ままに暮らしていた後輩は、故郷でぶらぶらしていた先輩を誘い、毎晩夜の町に繰り出した。
筆者がふたりと会ったのは、ちょうどその頃だ。原さんに人物ルポの取材を申し込むと、諫早駅にふたりが現われた。
それから丸2日間、昼も夜もカメラマンも含めた4人で行動した。原さんは「インタビューは140で」と言った。
松竹さんは1960年、諫早の農家に生まれた。5人兄姉の末っ子(兄3人と姉ひとり)。諫早農でラグビーを始め、花園出場こそならなかったが、スタンドオフとして活躍した。
卒業後は地元の材木店で働き、その後、自動車販売店のセールスマンに職を変える。営業成績はよかったが、30歳でサラリーマンを辞めたのは土日の仕事で、好きなラグビーをプレーできない週末が続いていたからだ。所属していた「むつごろうクラブ」での日々を充実させたかった。
原さんが1971年に秩父宮ラグビー場でイングランドと3-6と死闘を演じたときの純白のジャージー。フランス代表のものもある。日本ラグビーの歴史を伝える貴重なジャージー以外にも、店を訪れた選手たちが置いていったもの、あとで送ってくれたもの、海外のラグビーグッズや新聞、雑誌の切り抜きなどが、140の壁や天井を埋め尽くしている。
試合を終えたクラブチームの打ち上げ。ラグビー好きがわざわざ訪れることもあるけれど、やはり同店を訪れるのは楕円球を縁につながった仲間や友であったり、地元の知人たちだ。そこで知り合って結婚したカップルもいれば、悩みの相談で深夜にやって来る人もいた。
「みーんなウェルカムよ。喋ってみたら、よか人間。ほとんどが、そう」
暗い顔で店に入ってきた人も、松竹さんの調子に巻き込まれ、スッキリして帰っていく。その時は騒ぎ、おちゃらけて気を紛らわすだけで、悩みについては後日あらためて相談にのる。
「俺は結局のところ、人好きだけん」
『140』を開いた理由も「寂しがり屋だから。店をやれば、みんなが集まってくれるから」と明快だ。
コタツで寝た夜。諫早の町を連れまわしてくれた。
店から店へ。タクシー会社に電話して配車を頼む。3回呼んで、すべて同じドライバー。松竹さんはタクシーに乗るたびに言った。
「この(ドライバーの)タチカワさんは、うちの兄ちゃん(三男)の友だち。チョウダイ(長崎大)を出とらすとよ」
ときどき東大出身と言い間違えるのだが、タチカワさんは慣れたもの。「隆三、今度はどこ行くと?」と聞きながら、こちらの腹具合を聞き、「それならあっちの方が」となる。
代行タクシーの人が店に入って来れば、「これは後輩」。話の中に出てくるのは、かつてのボスや、兄貴分に弟分、ラグビー仲間に知人、そして、その知人。「諫早で自分を知らない人はおらん」は本当らしい。
妻・恵子さんが言う。
「それは事実かもね。もしかしたら、お金を持っていなくても飲めるかも。それぐらいの信頼はあるはず」
しっかり者の伴侶が続ける。
「ただ、この人は諫早の中でだけ強かと。外に出たら借りてきた猫状態」
本人も頷く。
「県外に出てはぐれたりしたら(諫早に)ひとりでは帰って来られんから。長崎(市)に行ったときですら、すぐ帰ろうって言うけんね」
愛し、愛されてきた店を閉じるのは、この冬の全国ジュニア大会に長崎県選抜の一員として出場する長男・龍之介くん(中3/長崎ラグビースクール)が高校進学するにあたり、家を離れるからだ。
これまでは、自分も、小料理店を経営する妻も夜に家をあけるから、息子に87歳の母・チヨノさんと家にいてもらった。春になればそうはいかなくなる。自分が母の面倒をみることにした。
父は49歳で亡くなった。「それから、ひとりで頑張って育ててくれた。その恩返しよ」とさっぱりしている。
「これまで好き勝手やってきたけん、よかと。これも俺の人生たい。寂しくなったら、今度はこっちが飲みに出掛ければいいだけ」
多くの人たちとの出会いを積み重ね、愉快な人生を歩んできた人は、ときどき息子にこんなことを言うらしい。
「絆の深さっていうのは、会った回数じゃなか。会って、すぐ分かりあえる人がおると。そういう縁は、ちゃんと大事にせんといかん」
うんうん。
松竹さんと会ったのは、1997年の夏が初めて。『140』閉店2日前の夜が3回目だった。
花園に向かう朝、ご自宅で朝食をいただき、お風呂も用意してもらった。
脱衣場で着替えていると、リビングの声が聞こえてきた。
「ありがとうね。喜んでくれたばい」
いつもふざけてばかりのおっさんが、奥さんにそう声をかけていた。
憎めないおやじ。
それが長く酒場を続けられた理由。
話し好きのシャベリ下手。
シャイな素顔が、多くの人たちをそこに惹きつける魅力だった。
多くの人に愛された『クラブハウス 140』の入口。
店内は貴重なジャージーや、新聞、雑誌の切り抜きなどで埋め尽くされている
【筆者プロフィール】
田村一博(たむら・かずひろ)
1964年10月21日生まれ。1989年4月、株式会社ベースボール・マガジン社入社。ラグビーマガジン編集部勤務=4年、週刊ベースボール編集部勤務=4年を経て、1997年からラグビーマガジン編集長。