2015年W杯、南アフリカ戦勝利後。試合メンバー外の選手たち
(Photo: Getty Images)
■その人がピッチの中に戻ったのは12月半ば。シーズンが終わる2週間前だった。
「The Battle」と題された自伝がある。アイルランド代表のロックとしてワールドカップ(W杯)4大会に出場、昨年引退したポール・オコンネル氏がグラウンド内外での「バトル」をつづった本だ。
2013年から緑の軍団を率いるジョー・シュミット監督については「過去に指導を受けたどのコーチとも違った」と評している。相違点の1つとしてこう記す。「ジョーは選手全員がチーム第一の姿勢を持つことを求めていた。たとえ試合のメンバーから外れたとしても、自分が先発するのと同じくらい真剣に先発メンバーの準備を助けることを求めた」。
アドルフ・ヒトラーに模して「シュミットラー」とも呼ばれるシュミット監督。その剛腕で自らチームをまとめていたため、2015年W杯で主将を務めたオコンネル氏の負担も軽減されたという。「チームをいい方向に進ませるために主将やベテラン選手がしなければいけないことは、他のコーチの時よりも少なかった」。
対照的な言葉を聞いたのは今月初旬。日本代表の2代前の主将となる廣瀬俊朗さんと東京・府中駅前のカフェで会った時だった。リーダーの役割について話が及ぶと、廣瀬さんがこう話した。「ラグビーのキャプテンって他の競技と比べても責任が重い。話を聞いてくれる人がいるだけでも楽になるんですよね」。
廣瀬氏が指導を受けたエディー・ジョーンズ前日本代表ヘッドコーチも、苛烈さではシュミット氏にひけを取らないだろう。しかし、チームの一体感の醸成では選手に委ねる部分も多かった。主将の守備範囲もアイルランドより広かっただろう。
だからこそ周りの支えは重要だった。
2年前、イングランド中部の街ウォリック。日本代表が合宿を張っていたパブリックスクールの一室で、報道陣に囲まれていた廣瀬さんの姿を覚えている。南アフリカ戦の美酒とスコットランド戦の苦杯を続けて味わった後、次のサモア戦に向けて準備をしているさなかだった。
出場機会を得られず、どういう心境で練習しているのかと問われた時、答えた。
「試合に出られないのは悔しいけど、チームが勝つのは楽しい。チームが勝って日本のラグビーを変えるのが楽しい。自分の成長につながると思ってくじけずにやっている。自分たちができることをやり抜く」
こう思える人は強い。その献身は周囲にも伝染する。主力組は重圧や疲労を乗り越える活力を得られる。出番に恵まれぬ選手はチームのために自分がなすべきことを探そうとする。
結果を出すチームには多くの場合、似た存在がいる。恐らくラグビーにとって本質的なことで、チームのレベルともあまり関係がないのだろう。次に書くのは個人的な話ではあるが、1つの例として紹介したい。
筆者が所属していた関西大学Bリーグの中堅チームでのこと。5月だったか、4年生のフランカーがヒザの前十字靱帯を切った。全治は6か月以上。スポーツ選手が最も避けたいケガの1つである。
シーズン最終戦の12月下旬までに復帰できるかどうかは分からない。仮にグラウンドに帰ってきたとしても、レギュラーになるまでの力を取り戻すことは時間的に難しい。卒業後に一般就職をする人間にとってみれば、現役引退を告げられたのに近い。
絶望感を抱きながら、仲間が練習している姿をただ見続けるというのは精神的にこたえるもの。へたをするともうグラウンドに顔を出さなくなってもおかしくない。日本一を目指す強豪校と違ってラグビーを主目的に入学する学生はいなかったから、ケガをきっかけに退部する者も実際にいた。
現役生活はほぼ終わり。そう思ったのは周囲だけだった。
本人は入院、手術を終えると、以前と同じように週に6日、グラウンドにやって来た。ヒザのギプスが外れると、代わりにサポーターをつけ、歩くほどの速度で走り出す。チームが練習している間、グラウンドの周りをぐるぐる走り続ける人の姿は恒例になった。気温38度の炎天下でも、秋風が冷たさを増しても変わらずそこにいる。
全体練習に参加できぬ代わりに、コーチさながらの指導も始まった。先発のフランカーに入ることになった後輩らには、スクラムが解けた後に走るコースを丁寧に教える。いずれポジションを争うことになるかもしれぬ相手に、なぜこれだけ熱を持って助言することができるのか。当時、教えを受けた1人としては不思議だった。
その姿がピッチの中に戻ったのは12月半ば。シーズンが終わる2週間前だった。袖を通したのは白いセカンドジャージー。Aチーム入りはかなわず、Bチームの一員としての出場だった。
体は万全には遠く、本来のプレーはできなかった。復帰を急いだことも影響しただろう。試合中に別の箇所を傷めて交代。復帰戦はそのまま引退試合になった。
寒風の中、土のグラウンドでの数十分間を見守った観衆は僅かだった。プレーの水準で言ってもW杯やトップリーグとは比べるべくもない。ただ、試合中にピッチの周りで目頭を抑えていた仲間は1人や2人ではなかったと記憶している。
この年は60人弱の部員がいたが、なかなかまとまりのあるチームだった。オコンネルの表現を借りるなら、「半年間にわたって試合から外れていたのに、先発メンバーと同じだけ真剣に準備した」人の存在が大きかった。
2015年W杯の日本代表31人の中にも、桜のジャージーを着ないままでチームに大きく貢献した人がいた。廣瀬氏と、今も東芝で健在のフッカー湯原祐希。試合に出る出ないに関わらず、2年後のW杯でも同じような献身があってほしい。
その存在は日本を勝利に近づけるだけでなく、開催国の人々に何かを感じてもらうきっかけにもなりそうだから。
【筆者プロフィール】
谷口 誠(たにぐち・まこと)
日本経済新聞編集局運動部記者。1978年(昭和53年)生まれ。滋賀県出身。膳所高→京大。大学卒業後、日本経済新聞社へ。東京都庁や警察、東日本大震災などの取材を経て現部署。早稲田大学大学院スポーツ科学研究科で社会人修士課程修了。ラグビーワールドカップは2015年大会など2大会を取材。運動部ではラグビー以外に野球、サッカー、バスケットボールなどの現場を知る。高校、大学でラグビーに打ち込む。ポジションはFL。