JKジャパンの顔とも言えた、おおらかなスキッパー、キャプテンらしくないキャプテンがジャージを脱ぐ決意を固めた。
今季のトップリーグでは第1節から5連敗。開幕直前に新ヘッドコーチが離脱するなどのゴタゴタも影響して不振にあえぐキヤノンイーグルスにあって、開幕から主にLOのポジションで全試合出場し、今季3度目の先発出場となった前節のコカ・コーラ戦では60分間プレーしてチームのシーズン初勝利に貢献するなど、ベテランらしい存在感を見せつけているのがジョン・カーワンHC時代に日本代表主将だった菊谷崇(37歳)。
2試合連続での先発出場となる7日の神戸製鋼戦で史上4人目のトップリーグ通算150試合出場達成となるが、本人の中では今季限りで現役を引退するのが規定路線でもあり、単年ごとに交わしてきたキヤノンとの契約も更新しない意向だ。
「(トヨタ自動車から移籍して)プロとなり、基本的にはいつまででも現役を続けられるチャンスをもらったが、自分がプロ選手になったのは、引退した後に次のステップに進む準備を進めるためでもある。自分の意志で現役を終えられる選手は限られているし、いつまでも現役にしがみついていれば、それだけ次のステップに進むのが遅くなる。これだけ試合に出られて、最後の年を締めくくることができるなんて最高に幸せ」
今季終了後の進路自体は未定だが、指導者として第2のラグビー人生をスタートさせたい考えだ。
「キヤノンの練習でも若手に手本を見せたり、そういう状態のまま引退して、選手に寄り添って教えられる指導者になりたい。ボロボロになるまでラグビーをつきつめるよりは。そういう終わりか方が僕らしいかな」
御所工業高校、大阪体育大学を経てトヨタ自動車入りしたのが2002年。翌2003年に創立されたトップリーグの初年度はトヨタ自動車自体が下部リーグでの戦いを余儀なくされたため日本最高峰リーグでのプレー自体はなかったが、翌2004-05シーズンからはトヨタ自動車の一員として10シーズン、さらに2014-15シーズンに移籍したキヤノンで4シーズン、トップリーガーとして活躍。
通算150試合出場は盟友LO大野均(東芝)、PR山村亮、SO大田尾竜彦(共にヤマハ発動機)に次ぐ快挙となる。
日本人離れした体格を生かしたアタック力で大学時代から7人制代表として活躍。2005年のスペイン戦で15人制代表での初キャップも獲得した。
緊急登板するかたちで2007年ワールドカップ フランス大会で指揮を執ったジョン・カーワンHC体制が2011年ワールドカップに向けて再スタートすることになった2008年のアメリカ代表戦(11月)で初めて日本代表主将に指名され、以降約3年間、「サー・ジョン・ジェイムズ・パトリック(=カーワン元HC)からのプレッシャーに比べれば、エディーさんの要求は大したことない」と、本人が笑いながら半ば冗談でそう論評する鬼指揮官の下、ジャパンのスキッパーを務め上げた。
「みんながテンパっている時にちょっとリラックスさせるように『もっと楽しもうや』という感じで、硬くなっているのを緩くするのが僕のスタイル。ピシッとさせるのはJKがいるので、僕は逆でいいかな、と」
2011年ワールドカップを前に、菊谷は日本代表主将としての役割をそう語っていたが、例えば前任者の箕内拓郎(2003年および2007年ワールドカップでの日本代表主将)、後任者の廣瀬俊朗、リーチ マイケルあたりと比較しても、いわゆる「キャプテンらしいキャプテン」ではなかったのは確かだろう。悲壮感漂う――という雰囲気とは正直無縁だが、その一方でワールドカップ ニュージーランド大会へ向けた2011年シーズン、日本代表のテストマッチ全13試合で先発出場、しかも本番のNZ戦の後半19分に退いた以外はフル出場を果たすという離れ業を成し遂げてもいる。
トヨタ自動車時代、フィジカルバトルとしては一番のライバルだった東芝に対して「笑いながらタックルにくる人たち」と称したことのある菊谷だが、当の本人こそまさしくそのタイプ。
それは、大学時代にすでにセブンズ代表に選ばれるなど、もともとは恵まれた体格を生かしたアタック力に特徴がある「体を張らない」タイプだったが、入社当時フィロ・ティアティアなどがバリバリの現役で競争の激しかったトヨタ自動車FW第3列で試合に出るため身につけなければいけないスタイルだっただろうし、フィジーやサモアの厳しい環境の中、中3日で南太平洋の大男たちと戦うなどハードスケジュールが当たり前だったJKジャパンのタフな国際経験を経て身についたものでもあるだろう。
そんなふうにカーワン元HCの寵愛を受けたことは間違いない菊谷だが、実は、第2の人生でもラグビーどっぷりとなる方向性に舵を切るきっかけをつくったのは、JKの後を継いだエディー・ジョーンズ前HCだった。
本人いわく、「エディーさんに人生を狂わされた」。
「(引き分けに終わった)カナダ戦もそうだし、フランス戦もそう。もう少し落ち着いてプレーできていたら勝てていた。経験値が足りなかった」
結局、勝利に届かなかった2011年ワールドカップに関して、そう語る菊谷。燃え尽き症候群ではないが、「ワールドカップでやりきった感はあったので、12年のシーズンはプレーイングコーチのような感覚でトヨタでプレーして、そのまま引退しようかなんて考えていた」という。
そんな感覚でいた時に届いたのが、悪魔の囁きと言ってもいい「エディーズ・コール」だった。
「経験が必要になる。ベストの状態をつくれるなら(日本代表に)戻ってほしい」
「人間、期待されると嬉しいもので、急ピッチで体をつくって、たくさん練習したので、実際にエディーさんに会った時には自分の頬がこけていたようで、それを見て(6月)のPNCに呼んでもらえた」
2012年春、エディージャパンのスタート時のことだ。
「エディージャパンの練習は楽じゃない。ハードなトレーニングをして、自分の体が動くようになって、もう一度ラグビーといい時間を過ごせるようになっていた。その経験があったから、指導者になろうという意欲も出てきた」
そんなエディージャパンでの経験を経て、2013年末にシーズン途中でトヨタ自動車での社員選手として生活にピリオドを打つかたちで渡英。プレミアシップの強豪サラセンズに参加。翌2014-15年シーズンからキヤノンでプロ選手としての生活をスタートさせた。
その時すでに現役は4年をメドにしようと考え、プロ選手として自分の自由になる時間が増えた分、大学院でコーチングを学び、自らアプローチしてU17日本代表や高校日本代表でFWコーチも担当、フランスへ短期コーチング留学も果たすなど、着実に第2のラグビー人生への準備も進めてきた。
その一方で、人生を狂わせた張本人からも、2015年ワールドカップ開幕前に当時その人自らが中心になって進められていた日本のスーパーラグビーチームのFWコーチ就任要請もあった。
当時はまだキヤノンでプロ選手としてのスタートを切って1年目のシーズンを終えたばかり。その状況で現役生活に終止符を打ち、コーチに専念するように要求してくるというのも「エディーさんらしい」逸話ではあるが、3週間の熟考の末、その時点ではまだ現役に未練もあったため、スーパーラグビーチームのコーチになる話は断念。
それでも、近い将来、指導者としてラグビーに携わっていく覚悟がさらに固まる出来事になった。
トップリーグ出場150試合目となる7日の熊谷スポーツ文化公園陸上競技場。菊谷自身はチームに対して「特別なことはしないでほしい」とお願いしているという。
「今シーズンをラストイヤーにすると決めて、残り9試合しかない現役生活のカウントダウンの中でラグビーに集中できているので、150試合というのはあまり重要ではなくなっている」
前述のとおり、指導者としての勉強も続ける一方、偉大な前任者である箕内元日本代表主将などと一緒にプロ選手が教える新しいラグビーアカデミーを東京・三多摩地区でスタートする準備活動などにも取り組み中。
プロ選手として「ベスト4に入るために、毎日練習して、ひとつひとつ準備して、週末に臨む」スタイルをあと9節続けた後、第2のラグビー人生にも「笑いながらタックルにいく」ように取り組むはずだ。
(文:出村謙知)