宮城博さん。名護高校ラグビー部監督として臨んだ最後の花園、2010年度 第90回全国高校大会時
(撮影:BBM)
手元に1冊の本がある。
『小川重吉先生の思い出』
552ページにわたる追悼文集である。
小川は1929年(昭和4)、神戸二中(現兵庫高)にラグビー部を作った。
教員や企業の社長をつとめ、1966年に世を去る。その14年後に刊行された。
夫人・小川良子も連れ添った記憶を寄せる。そのわずか12行の文中に島田叡(あきら)の名は出てくる。
<主人は豪快な反面、感じ易い人でもありました。昭和20年1月、沖縄県知事として島田叡様が赴任される前、宅へお越しになりまして、宴のあと、『テルテル坊主テル坊主、あした天気にしておくれ』と歌われました。思わずまぶたが熱くなるのをおぼえました時、主人も唇を噛んでおりました。寒い晩の思い出でございます>
島田は神戸二中、三高、東大で小川の一学年下だった。内務省に入省。最後の官選知事として太平洋戦争末期に沖縄へ向かう。
神戸二中や東大で野球とともにラグビーに興じた島田を、スポーツライターの藤島大は、このラグビーリパブリックのコラムで取り上げた。今から2年前の2015年7月2日、「下着は自分で」という題である。
打診を受諾した理由が書かれている。
<おれが行かなんだら、だれかが行かなならんやないか。おれが死にとうないから、だれか行って死ね、とはよう言わん>
小川夫妻には島田の前途が容易に想像できた。だからこそ涙や嗚咽を感じる。
着任してから3か月と経たない1945年4月1日、アメリカ軍は沖縄本島に上陸する。県民や軍人など約19万の人命が奪われた。
その中に島田も含まれる。
凄惨な運命をぶつけられた沖縄人。それを受け入れる子孫はみな優しく、立派だ。
宮城博は名護高ラグビー部の前監督だった。2010年まで11年連続してチームを花園に導いた。これは県内高校ラグビーの全国大会連続出場記録である。定年退職した今は、県ラグビー協会の会長をつとめる。
宮城と名護の沖縄そば屋で一緒になった。15年ほど前である。別の席だったので、遠目から挨拶をした。食べ終わったら勘定はされていた。宮城はすでに帰ったあとだった。
当時、在阪のスポーツ新聞記者だったため、花園で取材させてもらうことはなかった。
それでも、ある年の瀬、試合直前の円陣の後ろに立つ宮城に遭遇した。
恐ろしい目つきをしていた。糸のように細く、白と黒のコントラストが光る。身震いする。国を守るため、死を賭して切り込みをかけた男たちは、こんな目だったのだろう。
玉木一史とは17年ほど前、ニュージーランドのクライストチャーチで出会った。
今はなき社会人チームのワールドでNO8として活躍した。スピードやしなやかさに「南海の黒ヒョウ」という形容詞が頭に浮かぶ。
普段の玉木は笑顔だった。プレーとは正反対。穏やかな雰囲気はオセアニアでも人を引き付けた。彼を軸に日本人中心のチームができあがる。レベルは問わなかった。玉木は初心者でもパスの仕方から教えた。
当時、シャーリーに在籍した田邉淳(現サンウルブズ・アシスタントコーチ)も参加した。南島の街にいた楕円球好きの若者たちはこのチームを拠り所にしていた。
玉木は沖縄に戻り、結婚。トレーナーとして変わらず人に頼られている。
本土から沖縄に移った者もいる。
小菅爾郎。早大、本田技研鈴鹿(現Honda)でSOとしてプレーした後、商業の教員免許を取る。現在は名護商工高の監督である。
早大時代に名護高の臨時コーチとして、宮城の人柄に触れたことも渡海の理由だ。
小菅は首を痛め、早大、本田の前半は真剣なラグビーができなかった。しかし、医師の許可が下り、本田で公式戦に出る。
コンビを組んだSHには言った。
「どんなボールでもいいからとにかく放って下さい。僕がなんとかするから」
低かろうが高かろうが文句を言わなかった。
名護商工高は県内3番手の位置にいる。同じ市内には県内トップの名護高がある。それであっても、ライバルチームの監督を認める。
「年下なのに尊敬できる。普通は中部から北部に来たがらないけど、彼は違う」
辺土名斉朝(へんとな・ただとも)の出身校はコザ高。島内中部に位置する。名護高は北部になるが、県全体の強化を考える。その生きざまに小さな地区意識はない。
そういう人たちが暮らす南西の島に、今年も6月23日がやってくる。
72年前、守備軍最高司令官である中将・牛島満の自決により組織的抵抗が終わった。
沖縄の「慰霊の日」である。
(文:鎮 勝也)