三重のラグビー界トップの中岡昭彦県協会会長
中岡昭彦は三重県ラグビー協会会長である。地域のトップに身を置き、じき3年目に入る。
1959年生まれの58歳。選手としてのラグビー経験はない。
2016年5月に発行された『東海高等学校選抜ラグビーフットボール大会20回記念誌』には中岡の「お祝いの言葉」が載る。
<2015年4月の岩名秀樹三重県ラグビーフットボール協会会長の逝去に伴い、7月よりその後任として任ぜられました中岡昭彦と申します>
この当時、着任からすでに1年近くが経っていた。にもかかわらず、一文の始まりで自分自身を丁寧に説明する。
生まれ持っての謙虚さは、非競技者ゆえに深みを増す。
中岡は県会議員でもあった岩名を師と仰ぐ。若かりし頃、秘書的な役割をつとめた。
「まあ、かばん持ちですね。先生のスーツを脱がしたり、着せたりするのなんかうまくできました。肩が悪かったら、左手を先に入れて、その次に右手、っていう感じにね」
人に快適に過ごしてもらうやり方を学ぶ中で、ラグビーに出会う。
今から16年前、2001年のある日、岩名から連絡が入った。
「ちょっと来い。面白いヤツを紹介する」
向かった先は民家を改造して作られた朝明のラグビー部寮。そこには監督の斎藤久(現四日市工監督)がいた。
岩名は言う。
「彼の相談に乗ってあげてほしい」
中岡は機械メンテナンスを主業とするエイワテックの代表取締役社長。経営者の目で8学年下の斎藤の本質を見抜く。
「彼は本物やと思いました。一緒に飲みに行った時に夢を聞いた。そうしたら、『花園に出たい』と。大きい夢を感じました」
無名の県立高校で、県大会優勝を唱える監督はそうはいない。
仮にいたとしてもほとんどは口先だけ。ところが斎藤には行動が伴っていた。
寮と同時に韓国人留学生の受け入れ、天然芝グラウンド、校舎の宿泊施設化…。
その部分が、理想と現実をすり合わせながら、利益という妥協点を生み出さねばならない中岡に強く響いた。
恩師の命じるまま、経済的な部分も含め、サポートをする。
中岡を得た朝明はその後、全国大会に6回出る。
中岡は楕円球に尊敬を送る。
「ラグビーはガチでやる。チャラチャラしていません。試合前に泣いているのはラグビーだけでしょう? そんなスポーツ、私はほかに知らない。それにラグビーは1人でも穴があったら、試合に勝てませんよね? 1人1人にかかる比重が均等なのもいいですね」
自身は中学、高校、大学とバスケットボールに熱中した。高校時代は三重県の国体選手にも選ばれた。その経験を通して、5人と15人でやる競技の違いを感じている。
岩名が泉下に旅立った時、斎藤ら協会理事から継承への強いすすめがあった。
「最初はもちろん断りました。だって、私はラグビー経験がないんだから。でもね、みんな熱心でした。『岩名先生の遺志をつげるのは中岡さんしかおらん』って言ってくれた。いろいろと考える中で、岩名先生のお顔も浮かんできました。それで、最終的にはお引き受けすることにしました」
岩名の逝去は4月。就任は7月。この3か月は二つ返事で引き受けず、悩み続けた長さを示している。
会長2年目の中岡がもっとも力を入れるのは、自身が代表理事をつとめる女子ラグビーチーム「PEARLS」だ。
世界に名の通った三重の「真珠」の英単語からその名前をとったチームは、2016年5月に発足した。
「高校ラグビーは強くするのに時間がかかります。でも女子ラグビーは始まったばかり。環境、就職、練習を整えてやれば結果は出しやすいと考えます」
中岡はその中心で動く。
住友電装などスポンサー5社を獲得する。
名誉顧問に三重県知事の鈴木英敬をいただき、トップチームのコーチには記虎敏和(啓光学園、龍谷大学元監督)を招へいした。
PEARLSは2021年に開催の「三重とこわか国体」での優勝を目指している。
中岡には信条が2つある。
「男の人生において、大切なのはどれだけ多くの人と出会うか。自分からどんどん外の世界に出ていくべき」
「無駄と思うことがどれだけできるか。その無駄が重なって価値が生まれる」
その自分の信じるべき生き方が、三重のラグビーに投影されている。
これからも姿勢を崩さず、歩み続ける。
(文:鎮 勝也)