情熱の指導者。全国選抜大会で早くも現場に立った。
(撮影/井田新輔)
口調は変わらず熱かった。
「まずグラウンドで響く音が変わるようにしたい。全ての接点とキックの音。選手一人ひとりが、きのうの自分自身を超えるチャレンジを続けられるように」
高校ラグビーの名門・大分舞鶴にこの春、OBの堀尾大輔教諭(44)が8年ぶりに復帰した。2003年度の第83回全国大会(花園)で準優勝に導いた手腕だけでなく、OB関係者が「彼の強みは情熱」と口をそろえる。花園1回戦敗退も多くなった伝統校を盛り上げるための最適任者と言えるだろう。
これまでは他校で少人数制や他競技も受け持つなど第一線から離れ、県内の女子ラグビーの強化にも携わった。県教委の人事異動で臼杵高から転出。荷物整理も後回しに、全国選抜大会開催中の埼玉県熊谷市に入った。
くしくも、自身が高校3年時の花園で敗れた東海大相模(神奈川)が、正式着任当日の初戦の相手。17-41で完敗したが、後半は好勝負を演じた。
2戦目も近畿大会優勝の大阪桐蔭に14-53と一蹴されたが、終盤は試合を支配して2トライを奪った。そして3戦目、秋田工に28-24で逆転勝ち。東北王者と競り合い、終了間際に認定トライをもぎ取った。
九州4位での出場ながらFWを軸に健闘。近場勝負の痛いプレーを最後まで続け、確かな手応えを得た。就任4年目で、その力を辛抱強く磨いてきた江藤賢ゼネラルマネジャー(53)は「これからバックスを伸ばして『もらう』ではなく、伸ばすことができるのは分かりきっている」と期待を隠さない。
覚えたての選手名を叫び、指示を飛ばした新指揮官も「いかにFWを前に出してやれるか。そのために15人のトータルラグビーでスペースを的確に突いていかないと」。やることは山積みだが、チームの可能性を感じていた。
1995年に筑波大を卒業。体育教員で母校舞鶴に赴任した堀尾氏は、コーチを経て2001年、28歳で監督に昇格した。就任初年度の花園で、7年ぶりのベスト8。03年度に20年ぶりの準優勝を遂げ、その後も8強入り3回など実績を重ねた。日本代表とサンウルブズで活躍する伊藤平一郎(ヤマハ発動機)ら好選手も多く育てている。
現役時代は俊敏性と激しいタックルが売りのBK。指導者としても、自身の全てをぶつけていくスタイルだ。家庭に戻っても練習と戦術のことばかり頭に浮かぶ。「没頭しすぎるところがある。酒が飲めず、趣味もないから」。息抜きは小学生のわが子の宿題を見てやり、広島カープの試合にやや拳を握ることぐらい。
そう苦笑いするが、高校ラガーを育てる上での信条を探れば、やはり眼光鋭く言葉をつないだ。
「満員の花園第1グラウンドで戦う姿をリアルにイメージできるか。準備せずに得られるものなどない。何がどうそこにつながっていくのか。目線を開発し、高校生トップアスリートとしての『プロ意識』が必要」
ラグビーと本気で向き合わせる。そして視線の先には常に、冬の本番がある。
あの情景を語り継ぎ、後に決勝に進むチームも作り、伝統を紡いだ。02年1月3日の第1グラウンド。今も名勝負と語られる大分舞鶴と大阪工大(現常翔学園)の準々決勝を鮮明に覚えている。
壮絶な追い上げで後半30分に逆転。しかし、無情に長いロスタイムはプレーが切れても続き、再逆転トライを許した。頼りになる兄貴分弟分がいた指導陣、3年生12人と強い信頼を結び臨んだ監督生活の初年度。その終幕を告げる笛に、やり切れずストップウォッチを見詰め立ち尽くした。涙に暮れる教え子たちの背に、地元大阪勢を応援していたはずの大観衆からの賛辞が、いつまでも鳴りやまずに…。
あれから15年。また最初の一年が始まる。様々な要因で低迷した母校を再び率いる。
「使命は分かっている。公立校の舞鶴の黒いジャージーに憧れて集まった選手が、巨大戦力の私立校に立ち向かっていく。その姿をこの先もずっと、関わっている全ての人に見ていてもらいたい。そのために今、仕事をさせてもらう」
大舞台を沸かせる激闘をこれからも、何度でも。全身全霊を傾け古豪復活に挑む。