OB戦後の練習でボールを蹴る伏見工・山口良治総監督。
右は大八木淳史OB会名誉会長、その右でボールを持つのは細田元一OB会長
3月5日、弥生最初の日曜日、伏見工グラウンドで最後のOB戦があった。
今月末、全国優勝4回を誇る京都市立の名門校は、洛陽工と統合して作られた京都工学院に完全に吸収される。
この日は、OB登録している1000人以上の中から、文字隆也(SO、トヨタ自動車)、芦谷勇帆(LO、前キヤノン)、松田力也(SO、パナソニック)ら現役選手を含め約200人が参加。家族、関係者などを入れると600人近くが、1960年(昭和35)の創部から57年使い続けたグラウンドへの別れを惜しんだ。
監督として全国制覇を2度達成させた山口良治は涙を浮かべ、声を震わせる。
「去りがたいなあ。思い出はいっぱいあるからね」
保健体育教員として赴任したのは1975年。現総監督は74歳になった。
正午過ぎOB戦は始まる。試合前には、OB会名誉会長である大八木淳史のリードで、昨年10月20日に逝去した平尾誠二(神戸製鋼GM)への黙とうが捧げられた。その後、世代別で試合をこなす。試合後には、脳こうそくの後遺症で杖を使う山口自らボールを蹴る。それをつなぎ、インゴールを越えるOBたち。口々に「最後の練習」と言い合った。記念撮影をして約3時間のイベントは終わった。
1998年、山口から監督を譲られた教え子の高崎利明(現GM、伏見工教頭)は、思い出を聞かれ、白砂の地面に視線を送る。
「やっぱり、悲しいことかな。新居のことやね」
2011年9月10日、3年生の新居(あらい)隼人が練習中に亡くなった。原因は熱中症。高崎は辞職を決意する。しかし、周囲の強い慰留によって思いとどまる。
翌2012年秋、第92回全国大会府予選決勝で、「絶対優勢」と言われた京都成章を16−14で降す。雨の中、傘を差さず濡れながら戦況を見守った高崎のスーツの内ポケットには、新居の写真が納まっていた。
このOB戦では、観賞用に並べられたトロフィーや盾とともに、新居の写真もテーブルに置かれた。横には平尾の写真があった。
8強入りした1987年度の第67回大会に出場したWTBの高橋晃仁(こうじ)はグラウンドでの記憶たどる。
「やっぱり覚えてんのは、ランパスを55本走ったことかな。この数が最高やった。数えてるやつがいてね、グラウンドに正の字を書いてました。終わったら11個。もちろん往復で1本ですよ。2時間半くらいかかったかなあ。走っているうちにランナーズ・ハイみたいになって『何本でも走れるわ』って気持ちになってくる。それくらいきつかった」
極限状態を超えた時に起こる精神の高揚を、横ならびにボールをつなぎ、約100メートルを全力で走り切る練習で感じる。
高橋は入社した神戸製鋼で7連覇に貢献した。息子の汰地(たいち)は明治大新3年。WTBなどで公式戦出場を果たしている。
杉本慎治は並べられた4本の優勝旗を感慨深げにながめた。
1980年度、第60回大会に1年生LOとして出場し、最上級生の高崎、平尾らとともに初優勝メンバーに名を連ねた。
「俺、1年やから優勝報告では優勝旗を持ってたんよ。ところが、試合に出してもらって疲れきっていて、京都新聞に行った時、その優勝旗を折ってしもうたのよ」
階上へのエスカレーターに乗った時、天井にぶつけ、旗竿は真っ二つになった。
「先輩らは『うわー、やってしまいよったー』って騒ぐし、俺自身も『山口先生にめちゃめちゃ怒られる』と思ったんよ」
報告を聞いた山口は言う。
「形あるものはいつかは壊れる」
過失は不問に付された。杉本は振り返る。
「これって、すごい教育やと思わん?」
杉本は同志社大で3連覇、神戸製鋼では7連覇に貢献する。現在は父から継いだ杉本工務店の代表をつとめている。
50歳のOB監督・松林拓の思い出は美しい。
「ランパスしたら、稲荷山がきれいでね。四季折々の景色を楽しませてもらったなあ。春は新緑、秋は紅葉って感じですね」
グラウンドを西側へ走り、振り向けば、朱色の千本鳥居が有名な伏見稲荷を抱く小さい頂が見える。季節によって変わる緑や赤や黄の色彩は、ほんの一瞬ではあるが、苦しい練習を忘れさせてくれた。
京都工学院は伏見工から自転車で東へ10分ほどの高台にある。京都と山科を仕切る東山36峰の南にあたるグラウンドからは、京都市街が一望できる。夕日や星空の下で見るパノラマもまた、趣はある。
「名残惜しい気持ちはあるけれど、これは通過点です。やることは変わらない。伏見のラグビーを続けていきます」
松林たちが、土から人工芝に変わるグラウンドで目指すのは、2大会ぶり21回目となる花園出場、そしてV5である。
(文:鎮 勝也)
OBたちが記念撮影をする